出典:国土地理院
御祭神の菅原道真についてお話しするのじゃ。
歴史上の人物で、父は菅原是善、母は伴真成の娘じゃ。ご神徳と得意分野は、
天満大自在天神
天満大神天満天神天満宮天神天神様菅丞相菅丞相霊菅公菅原大神菅原大臣命菅原天神菅原神菅原道眞菅原道眞公菅原道真菅原道真公菅原道真公命菅原道真命菅原道真大神菅原道真朝臣菅相公菅自在天神道真公etc...
父:菅原是善
母:伴真成の娘
道真は代々学者の家系である菅原氏に生まれ、幼い頃からその才能を認められた神童であった。若くして学問の最高位である文章博士となり、漢詩文に秀でていた。宇多天皇の信任を得て要職を歴任し、55歳という異例の速さで右大臣にまで昇進した。しかし、その急激な出世は、時の権力者であった左大臣の藤原時平との間に深刻な対立を生んだ。
昌泰4年(901年)、道真は藤原時平の讒言により、無実の罪を着せられ、九州の太宰府へ左遷されることとなる。家族とも引き離され、京の都を去る際には、自邸の庭の梅の木を思って、
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
(東の風が吹いてきたら、梅の花よ、その香りを大宰府まで届けておくれ。私のいなくなった都の家の庭の梅の花よ、主人がいなくなったからといって春を忘れてはならないよ。)
という歌を詠んだという有名な逸話が残されている。太宰府での道真は、配流に近い不遇な生活を送り、失意のうちに延喜3年(903年)に59歳で生涯を閉じた。
その後、都では疫病や天変地異、公家の変死など、不吉なことが起こり続けた。決定的だったのが清涼殿落雷事件である。公家たちは、死後に怨霊と化した道真の祟りであると発狂し、それを鎮めようと始まった信仰が、天満天神信仰である。京都の北野天満宮は、宮中の天門の方角に位置し、雷神こと道真公を祀ることで、魑魅魍魎が都に入ってこないように封じるために創建されたという経緯がある。
このように元々は怨霊神であった道真ではあるが、都の騒ぎも落ち着き、いつの頃かは定かではないが、学問の神として親しまれるようになった。
菅原道真(すがわらのみちざね)が、政敵である藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、不遇のうちに没したのは延喜3年(903年)のことである。彼の死後、平安京では疫病の流行や天変地異が相次ぎ、都の人々はこれを道真の怨霊の祟りだと恐れるようになった。【怨霊となった道真公】
中でも、延長8年(930年)に清涼殿に落雷があり、多くの公卿が命を落とすという事件は衝撃的であった。この時、落雷に遭って亡くなった藤原清貫は、道真を監視する役目を担っていた人物であったため、道真の怨霊による報復と考えられた。これら一連の出来事に対し、朝廷は道真の祟りを鎮める必要性を感じ、彼の名誉回復と慰霊に努めたのである。
まず、道真の墓所である安楽寺が、その怨霊を鎮めるための中心的な存在となった。道真の遺骸を運ぶ牛車が動かなくなった場所に墓が築かれ、その地に建てられたのが太宰府天満宮である。当初は怨霊を恐れる信仰であったが、やがて道真の生前の学才が尊ばれ、学問の神として崇敬されるようになった。
一方、都においては、道真の乳母であった多治比文子に道真の神託があったとされる。また、近江国の神官である太郎丸も同様の神託を受けたと伝えられる。こうした神託に基づき、京都の北野にあった雷神を祀る社に道真の霊を合祀し、天暦元年(947年)に朝廷の勅命によって北野天満宮が創建された。この動きは、怨霊として恐れられた道真を雷神(天神)として祀り上げることで、その祟りを鎮め、平安京の守護神としようとする御霊信仰に基づくものであった。
古天神は、日本神話や各地の神社伝承、および歴史的な遺跡にその名を残す神格であり、古くから地域の人々に信仰されてきた神である。一般に天神といえば平安時代の学者である菅原道真の神霊を指すことが多いが、古天神という呼称は、道真の信仰が全国に普及する以前から存在した原始的な天の神、あるいは遷座する前の古い天満宮の旧地やその祭神を象徴する言葉として用いられる。【古天神について】
また、各地の天神信仰のなかには、菅原道真が祀られる以前の地主神や、天穂日命のような天孫降臨に連なる天神の系譜や神代七代などの神格を「古き天神」として尊ぶ伝統も残されている。
代表的な例として武蔵國、現在の東京都調布市に伝わる布田天神社の旧地があり、この一帯は古天神遺跡として知られている。同地では、少彦名命などの国造りの神が古くから古天神として祀られており、後世に道真の霊が合祀された後、現在の地へと遷座した歴史を持つ。
愛媛県今治市の古国分の地に鎮座する綱敷天満神社の旧社地も古天神と称され、新しく建立された社と対をなす形で、地域社会の暮らしを守る郷社として氏子たちから変わらぬ崇敬を集めてきた。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。