なぜ、茨城県筑西市なのか?

安倍晴明は、延喜21年(921年)に生まれ寛弘2年(1005年)に没した平安時代中期に実在した陰陽師である。賀茂保憲に陰陽道を学び、天文道を伝授された。51歳の時に天文博士に任じられ、その後、天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった。

安倍晴明の出生に関しては特に謎が多く、複数の伝承が日本各地に伝わっている。その中のひとつに、晴明生誕の地として現在の筑西市にある「猫島」という特定の地名が、陰陽道の注釈書とも言われる『簠簋抄』(作者・成立年代は諸説あり)に登場し、以下のように書かれている。

…生国筑波根ノ麓猫島ノ生ノ人カト云。

しかしながら、ここに確固たる根拠はなく、猫島に残る「晴明舟つなぎの柳」「晴明橋」「晴明塚」といった名辞だけがこの伝承を支えている。何故、猫島なのか。現状、その手掛かりを得ることは真に困難であり、晴明生誕伝説の謎をより一層深めている。

史実としての安倍晴明という人

安倍晴明(菊池容斎・画『前賢故実』)Wikipediaより引用

出生ついて

安倍晴明の出生について(生年月日や生誕地など)確実なことは分かっておりません。 生年月日については、没年月日と年齢が分かるのでそこから逆算しての算出に依ります。

生:921年2月21日(延喜21年1月11日)
没:1005年10月31日(寛弘2年9月26日)

平安時代を生きた人物で、この当時としては長寿で85歳で亡くなりました。
生誕地に関しての情報は、後世に書かれた複数の文書の中に見ることができますが、史実としての裏付けに足る証拠が十分とは言えない状況です。 その中のいくつかを紹介しましょう。

  • 茨城県 筑西市 猫島 説(出典:簠簋抄ほきしょう
  • 大阪府 大阪市 阿倍野区 阿倍野 説(出典:安倍晴明神社社伝)
  • 香川県 高松市 説(出典:空華日用工夫略集 など)
  • 奈良県 桜井市 安倍寺跡 説

セイメイ? ハルアキラ?

現在、私たちは「晴明」を「セイメイ」と当たり前のように読んでいますが、実は平安時代当時にどういう読み方をしていたか、確実なことは分かっていません。 「ハルアキ」「ハルアキラ」「ハレアキラ」・・・色んな可能性があります。大河ドラマ『光る君へ』では「ハルアキラ」と読んでいますね。

安倍晴明は遅咲きだった

後世の創作物による脚色のせいか、幼少期から呪術を行う天才陰陽師のイメージがありますが、安倍晴明という名前が歴史の表舞台に登場するのは、彼が40歳の時。 この時に晴明は陰陽寮で陰陽道を学ぶ学生として、初めて文書の中に登場します。 それ以前の晴明が何を生業としていたかについては、よく分かっていませんが、朝廷内の下級官吏として雑務を行っていたらしいのです。 その生活の中で陰陽道に興味を持ったのか、もともと天地に関する勘が鋭かったのかは分かりませんが、数々の陰陽師に弟子入りを志願します。しかしながら、尽く断られました。 その中で唯一、賀茂保憲だけが晴明の術の実践力を評価し、弟子入りが認められました。 この時の晴明の陰陽道は独学または自己流に近いものだったのでしょう。正しい知識を学びなおすために陰陽寮で勉強をしていたと考えられます。 また、「術」というものは、「師匠から弟子への伝授」という段階を経ないと意味をなさない、という思いもあったかもしれません。
それでも実践力が高かったために、師匠の保憲のアシスタントとして活躍の場が増えていきます。 晴明52歳の時に天文博士を任ぜられ、57歳の時に師匠の賀茂保憲が亡くなります。 師匠の死後は、晴明が陰陽道の第一人者としてより頭角を現し、より天皇に近い所で仕事をするようになりました。 そして、85歳の時に亡くなりました。

晴明伝記せいめいでんきが伝える安倍晴明という人

猫島の高松家に代々伝わる『晴明伝記』を読み解いて行きましょう。 まず冒頭に「晴明博士は吉備真備の子孫であり常陸國真壁郡猫島に故郷がある。」と記されています。 歴史の教科書で習ったことをよぉーく思い出してみると、若干「?」な部分がありますね。

以下、本文へと続きますが、内容が分かりやすように箇条書きで追っていきます。

  1. 阿倍仲麻呂の父は、遣唐使として唐に渡った時、貢物が少ないという理由で有罪となり帰国することが許されなかった。
  2. その後、霊亀2年(716年)に阿倍仲麻呂が入唐した。文献では遣唐使としてとあるが、実際は父を探すためであった。父子ともに帰国は叶わず、唐の地で死んだ。
  3. 同じ時に遣唐使として渡った吉備真備が帰国できたのは20年後の天平7年(735年)。帰国後、左大臣に任ぜられる。
  4. 帰国した吉備真備は阿倍仲麻呂に世話になったことを思い出し、唐から持ち帰った宝書は、仲麻呂の子孫に託すべきだと考えるようになった。
  5. ある日、仲麻呂の子孫は「東天の和歌の山下に有るべし」というお告げを夢に見る。
  6. 「東天の和歌の山下」とは筑波山の麓であると確信し、真壁郡を訪れた。
  7. 真壁郡の猫島に着いたときに、何処からともなく現れた数千匹の猫に取り囲まれて一歩も動くことができなくなってしまった。
  8. 困っていると、たくさんの子供たちが集まってきて、気が付くと猫はいなくなっていた。
  9. その子供たちの中の一人に目が留まった。とても聡明な雰囲気の少年である。
  10. その少年と話をしてみると、母は信田姫であるという。 母は

    「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉成る しの田の森の うらみ葛の葉」

    という詩を残して消えてしまったという。
  11. これを聞いた吉備真備は、これこそ神のお告げだろうと確信した。しばらくの期間、猫島に留まり、この少年に陰陽道の宝書と証文を残した。
  12. この少年は才能が鋭く、一を聞いて十を知る才能があった。
  13. 大人になり都へ登ると、天皇の御殿で不思議な占いをし、その功績で従四位を任ぜられ、その時が3月だったので「晴明」と名乗るようになった。 陰陽博士安倍晴明である。
  14. 花山院天皇の御代である寛和のころ(986年ごろ)に、一度、猫島に戻ってきている。 そして、随心水(五角の井戸)がある限り、神の御恵みが末代まで続くだろうと言い残し、村を一周して再び都へ戻っていった。
  15. この道中で立ち寄った場所に「晴明」という名が、常陸國の中には残されている。
  16. ・・・という内容のことを、承久元年(1219年)頃に、晴月という人物が都より猫島にやってきて書き記していった。
  17. 宝書の在処などすべてを書き記し八幡に納めたと伝わるが、その後の戦乱により焼失してしまった。

いかがでしょうか?・・・つまるところ「晴明伝記」のオリジナル版は、承久年間に晴月と名乗る人物が書き記した文書になりますが、 そのオリジナル版は戦乱で燃えて無くなってしまいました。 その後、口伝でのみ残された内容を宝永8年(1711年)に版木に書き起こしました、という流れになっているようです。

まず気になるところは、吉備真備が託した少年が安倍晴明である場合、時代が200年くらい飛んでしまっている所ですね。 吉備真備の没年は775年、安倍晴明の生誕は921年・・・。
「3月に乗じて晴明と名付けた」という辺りは、良い感じですね。晴明もとい清明は、二十四節気の三月節(旧暦2月後半から3月前半)を指します。 現在の暦では4月5日頃、桜が満開となる季節です。
晴明が65歳のころに一度、猫島に戻ってきているという部分も良いですね。茨城県内には「晴明」と名がついている川とか、確かにいくつかあります。
晴明の死から200年後に晴月という人物がやってきた部分・・・この人は安倍晴明の子孫でしょうか。ここらへんも謎ですね。

ファンタジー要素は多いと感じますが、吉備真備が遣唐使として唐に渡った年など史実に正しい部分もあります。なかなか判断が難しい所です。 最終的にどう考えるかは皆さんそれぞれかなと思います。

個人的には文書の中に気になる部分がいくつかあります。表紙を捲った最初に書いてある二柱、速秋津彦神はやあきつひこのかみ速秋津姫神はやあきつひめのかみ。 この神は、祓戸大神はらえどのおおかみの四柱のうちの一柱である速開都姫神はやあきつひめのかみと同神であり、 祓詞はらえことばという祝詞の中で、 瀬織津姫神せおりつひめのかみから受け取った罪穢れを川と海の境で飲み込む神として奏上されます。 また古事記に登場する水戸神みなとのかみと同神とも言われ、いわゆる、河口や港を司る神でもあります。 さらに神名の表記(使っている漢字)に注目すると、この表記は先代旧事本紀せんだいくじほんぎの第一巻「陰陽本紀」と同じです。
つまり、この神は完全に神道の神であり、当時としては主流だった神仏習合的な扱いではありません。 また、あまりパッと出で名前が出てくる(一般民衆が親しみやすい、或いは、分かりやすい)神ではないので、何らかの深い意味があっての記述かと考えられます。 この文書の本質はここにあるのではないか、と個人的な興味を掻き立てられます。

猫島の古老が語る安倍晴明という人

明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より

明野町史資料第二十三集「明野の聞き語り」の中に、古老が安倍晴明について語っています。いくつかを抜粋してご紹介します。

伝説は吉備真備の子として晴明は出てくるのもあるね。時代がずれてんな。二百年くらい。 でもそういう風に、誰かが脚色したものかね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
安倍晴明は高松さんの屋敷内に住んでいたという言い伝えもあるんです。 昔のことだからその辺りのところは、はっきりとは分からないのですが。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
やはり高松家と晴明伝記がベースとなっているようです。ただ、信憑性というか史実としての確実性は微妙・・・と言った所ですね。

かつて、松原集落のヒョットコ芝居では安倍晴明伝説に基づき「信田妻」を上演していました。要約すると次のような内容です。
晴明の父は保名やすなといい、悪衛門に狩り出された狐の命を助ける。 恩を感じた狐は女の姿となって保名の妻となる。 そこから生まれたのが晴明ということになる。 ある日、庭前の菊の花に見とれていた母は、つい狐の本性を現してしまい、我が子に見つかり、信太の森へ帰って行った。
保名と子供は母を訪ねて信太の森へ行き、母親を見つけ、その時に子供は霊力を授かったという。 この子が晴明で、帝の病気を治したり、父を祈祷によって蘇生させたりする。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
古老も芝居について次のように語っています。
その障子、左書きに書いてあったんだな。裏から見れば読めるようによ。 ヒョットコでやんのは、そうなんだ。なかなか左の字で書くんだから、容易じゃないよ。それをやったんですよ。 でー、「恋しくば、訪ねてき来てみよ、篠田なる、恨み、葛の葉」っていう歌なんだ。
* * * 中略 * * * 
安倍晴明は分かったんだって。分かるんだってゆうから、偉い。 狐の子供に俺も生まれたかったような気がする。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
猫島の集落内には「晴明」の名前がいくつも残っています。晴明稲荷、晴明の井戸、晴明塚、晴明船つなぎの柳・・・。 たとえ伝説であっても、大切にしたいという想いが伝わってきます。
明野町史資料「明野の聞き語り」は次のように締めくくっています。
やはり、地元の伝説を大切にしていたものと思われる。事実はともあれ、大切にしたい伝説である。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より

簠簋抄ほきしょうが伝える安倍晴明という人

『簠簋抄 5巻』[1],[寛永年間]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544460 (参照 2025-01-15)

簠簋抄ほきしょうとは、陰陽道に基づく占術の専門書に関する注釈本とされます。作者や成立年代に関しては不詳。 現存する最古の本は江戸時代の寛永4年(1628年)に作られた活字版であり、これは国立国会図書館デジタルコレクションの中で閲覧することが可能な状態となっています。
特に、簠簋抄 5巻 [1]の前半は、高松家の「晴明伝記」の内容とほぼ同じと読める部分が多くあります。 ただし、情報量の多さは簠簋抄のほうが勝り、その差を鑑みると、簠簋抄を参考にしつつ晴明伝記(宝永版・高松家現存)を書き起こしたのではないかと考えられます。 簠簋抄と晴明伝記との間の情報の差分を箇条書きにしてみます。

  1. 吉備真備が唐より持ち帰り、阿倍仲麻呂の子孫に託そうと考えた宝書は「金烏玉兎集」という。
  2. 「仲麻呂の子孫は、筑波根の麓に吉生という所、または、真壁郡猫嶋という所」にいることを知り、吉備真備は吉生に立ち寄った。
  3. 吉生で6・7歳くらいの子供たちが12・3人遊んでいた。その中の一人に目を引く少年がいた。(猫に囲まれた話は無い) 不思議に思い、古老に尋ねると、その少年が仲麻呂の子孫であるという。
  4. この少年が後に鹿島に籠り、不思議な術を身に着けていく。烏の言葉を理解したり・・・など
  5. さらには都に登り、天皇の為に占いをし御殿に召し抱えられるようになった。それが三月だったので清明と名乗るようになった。(この部分は晴明伝記と同じ)
  6. そして子々孫々に「清明」と名乗った。
  7. 「生国筑波根ノ麓猫島ノ生ノ人カト云」という部分に繋がる。

簠簋抄ではセイメイを「清明」と表記しています。 また、吉備真備が宝書を渡した少年≠安倍晴明という仕立てで話が進むので、晴明伝記で気になった200年のギャップがきちんと処理されています。

『安倍晴明物語』という本が寛文2年(西暦1662年)に刊行さえています。 この本は簠簋抄の序文をベースに、平安・鎌倉・室町時代に刊行された説話集に採録された晴明の伝承のいくつかをピックアップして挿入し、 それらがあたかも時系列順に生じたかのような体裁をとっているようです。
ここから先は個人的な予測です。『安倍晴明物語』や『簠簋抄』、そのほか『先代旧事本紀』などを知った 相当に賢い猫島村民が創作したオリジナル晴明物語が『晴明伝記』なのではないかとも思えるのです。 ただ、『安倍晴明物語』も『晴明伝記』も根っこは『簠簋抄』に繋がっているので、「晴明の生まれが猫島」という部分が、猫島村民による100%創作だということにはなりません。 そもそも『簠簋抄』がいつの時代に誰が書いたのもなのか・・・それが最大の謎なのです。

猫島という地名の由来

明野町史資料第一集 明野町の小字名図より引用

猫がいっぱいいた!?

猫島という地名の由来には諸説あるようです。まずひとつ目として、史実を追いながら、高松家に遺る「晴明伝記」載る物語を紹介しましょう。

【史実の部分】
奈良時代の霊亀2年(716年)、学者である吉備真備きびのまきびが第9次遣唐留学生として、 阿倍仲麻呂あべのなかまろらと共に唐に渡りました。 遣唐留学生たちは、唐で最先端の学問を学び、特に吉備真備と阿倍仲麻呂は知識人として頭角を現しました。 吉備真備は、天平7年(735年)に多くの書物と共に帰国しました。
その約15年後の天平勝宝年間に再び唐に渡ることになった吉備真備。 そこでかつての同志の阿倍仲麻呂と再会します。 帰国することなく唐に残っていた阿倍仲麻呂は、唐の高官にまで上り詰めておりました。 その結果、吉備真備は宮殿の府庫の全ての書物に触れることを許されるという、破格の厚遇を得ることが出来ました。
天平勝宝5年(753年)に吉備真備と阿倍仲麻呂は帰国の途に就きます。 吉備真備の乗った船は辛うじて屋久島へ漂着できましたが、阿倍仲麻呂の乗った船は帰国に失敗し、唐へ引き返さざるを得ませんでした。 その後、阿倍仲麻呂は帰国することなく、宝亀元年(770年)に唐の地で死んでしまいました。
帰国した吉備真備は歴代の天皇に仕え、右大臣にまで上り詰めました。 宝亀2年(771年)、77歳の時に朝廷の職を辞し、宝亀6年(775年)に81歳で没しました。
朝廷を離れたあと没するまでの4年間についての吉備真備の記録は残っておりません。 おそらくこの時期の事が「晴明伝記」に繋がるのではないと考えられます。
【伝説の部分】
吉備真備は、唐から持ち帰った陰陽道に関する書「金烏玉兎集きんうぎょくとしゅう」を 阿倍仲麻呂の子に委ねようと、常陸國の筑波山麓を訪ねてきました。 その時に、数千匹にもなろうかという猫たちに取り囲まれてしまいました。 どうにも進めなくなってしまった所に、6・7歳くらいの美しい童子が現れ、猫を追い払ってくれました。
この童子こそが、阿倍仲麻呂の子(名を満月丸という)であり、約200年の後に陰陽師となる安倍晴明のおやでもあります。 この時の逸話が基になって「猫島」という地名が名付けられました。

国土地理院地図タイルを利用して作成

子の小島 →  ネコシマ

もうひとつ由来に関わる興味深いお話をしましょう。これは明野に住む古老が語ったお話です。

猫島は宮山の鹿島様からこちらの方角がの方(北)になるんです。 子の方角にね、それで、「子の小島」と言った人があるんですが、それがだんだんつまって「猫島」になったって言うんだ。
なんかこう、十二支のあれで、昔はあれですからね…。 だから地名なんかも、こう神社とかそういう仏閣とかいうのを基準にして、出来ていますからね。 だから、そんなものもあるんですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用
子の方角にある島(集落)だから「子の島」。それが詰まって「猫島」となったという過程は、充分に説得力のある話だと思います。
そして、猫島の集落の中に「猫手」という小字こあざがあります。これを「ちょっけ」読みます。こちらについても古老が次のように語っています。
そうですね。いろいろあるみたいですね。猫島と言われるあれはね。 猫手ちょっけという集落に、何かあのあたりに猫がたくさんいたとか。 ちょっかい、って面白いですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用
猫がたくさんいてチョッカイを出してくるから猫手ちょっけと言うとか、なんとも可愛らしい由来ですね。

安倍晴明ゆかりの場所

晴明橋せいめいばし

江戸時代には猫島の集落の中に「晴明橋」という小字があったようです。また、古老の語るところによれば、晴明橋という名前の橋もあったとの事。集落内の溜池から流れ出た小川が米御膳神社の西側の水田の水を補っていました。この小川に架かっていた橋を「晴明橋」と呼んでいたそうです。この橋は安倍晴明によって、地元産の御影石を使って設計されたと伝わり、堰堤を兼ねた橋で、どんな洪水や増水にも耐え、水が橋を超えることは無かったと言われます。

小川や晴明橋は区画整地の時に無くなってしまいました。橋があったとされる場所は、現在は「晴明橋公園」となっており、説明碑と晴明橋の石(元晴明橋石)が建てられています。

明野町史資料第十二集 明野町の村絵図より引用

晴明神社せいめいじんじゃ

猫島の高松家の敷地内、北西の位置に鎮座している小さな神社です。中央に大きめの祠、両脇に小さめの祠が並んでいます。 高松家に伝わる「晴明伝記」によれば、安倍晴明の先祖である阿倍仲麻呂を八幡大菩薩として祀り、信田明神として稲荷大明神を祀っているとのこと。信田明神とは晴明の母・葛の葉の事です。高松家では12月8日を祭日として赤飯を炊き、お供えをしています。

陰陽道では、北西という方角を「天門」と言います。天門は特に重要で、魑魅魍魎・怨霊・災いが出入りする忌むべき方角であると説きます。この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌すると信じられ、氏神や屋敷神を祀ることが大吉であると言われます。

五角の井戸ごかくのいど

高松家の晴明神社の傍らに直径3mくらいの窪みがあります。これを「五角の井戸(晴明井戸)」と呼んでいます。 残念ながら現在は枯れてしまっていますが、かつては清水で満たされ、晴明が鹿島神宮の龍神より授かった水であったと伝わります。 窪みを上から覗いてみると、形が何となく五角形に見えるような感じがしませんか?この形も陰陽道に通ずる五行思想に由来します。そして、昔話として古老が次のように語っています。

晴明神社には昔、お乳の出ない人がその水をもらいに来て、それを飲むとお乳が出たっていわれていたね。 また、病気にもならないと言われていた。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用

晴明塚せいめいづか

高松家の敷地内にある旧跡です。疫病が流行った時、晴明はこの場所から筑波山方面に矢を放ち鎮めたと伝わります。 その時に放たれた矢が落ちた場所が、現在のつくば市 一の矢と言われています。一の矢までは直線距離にして約17.5km、その場所には八坂神社が鎮座しております。(神社創建の由緒に関しては諸説アリ)

全国の多くの八坂神社では、かつて疫病を司る神・牛頭天王こずてんのうを祀っていました。この牛頭天王は陰陽道に深く関わる神で、蘇民将来の説話と共に全国に広まりました。除災の護符に「蘇民将来子孫之門」や「晴明紋」が記され、夏の神社の風物詩である茅の輪くぐりも蘇民将来の説話に由来します。

猫島とその近隣の郷土史跡

米御膳神社よねごぜんじんじゃ

猫島に鎮座する神社です。創建は今から千年以上前の天慶・天暦年間(西暦950年頃)と言われております。 ご祭神は保食神うけもちのかみで、五穀をはじめとする食物の神、養蚕の神であります。 神社創建に関して次のような話が伝わっています。

この地一円年ごとに凶作にして村人は困窮していた。そこで村全体で豊作祈願を行った所、五穀は大いに実り、 村人たちは歓喜して保食神をこの地に勧請かんじょう(有力な神社から分霊をして祀る事)したという。
茨城県神社誌 より
また、現在では途絶えてしまっていますが、昔は「ホイホイ祭り」というお祭りもあったようです。
祭りは毎年11月15日の丑の刻(午前1時~3時)に執り行われる。神饌にはキビ・鰯・甘酒などを供える。 氏子たちは子の刻(午前0時頃)から「ホーイ、ホーイホイ、ホイホーイ」と大声で叫びながら参集し、 神主は潔斎し神事を執り行う。直会には食べ競うくらいのご馳走が振舞われた。俗にいう、ホイホイ祭りである。
明野町史資料 第二十二集 明野の神社と寺院 より

鹿島神社かしまじんじゃ

武甕槌命たけみかづちのみことを祀ります。 創建については不詳ですが、延宝7年(1679年)の「新鹿島大神宮之縁起」に興味深い記述があります。 大化の改新で有名な中臣鎌足の父である中臣御食子なかとみ の みけこが、この神社の創建に関わっているというのです。 中臣御食子は天児屋根命あめのこやねのみことの子孫で、鹿島神宮の神官を務めていました。 その職務の中で宮山を地域を訪れた時に、鹿島神を勧請したとの事。

神仏習合の時代には、観音堂(宮山観音堂)の奥院として信仰されていました。 また隣にある駒形神社に祀られている馬像も神仏習合の名残です。 宮山観音堂の観音様は牛馬の守護を司ると崇敬されていましたが、神仏分離の時に観音堂から分離されて、現在の駒形神社に祀られるようになったようです。
ある古老の語るところによれば、宮山観音堂の本尊は馬頭観音と言われていたらしい。 ただ、現在、宮山観音堂の本尊は十一面観音なので齟齬があります。かつては馬頭観音もあったのか、単なる誤認なのかは不明です。

鹿島神社に至る長い参道について面白い話を古老が語っています。

これも昔、建立の年号や何かは、全然分からないんですが、宮山の観音様も奥の院っていうのがあるんだ。 鹿島様ってゆう神社なんだ。 そこへ行くのには、コンコンコンコンと音のする下が空洞になっているような所を通るんだ。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
何やら謎めいた話ですね。地下空洞説・・・参道沿いに古墳や巨石遺跡があるくらいですから、もしかすると地下には古代の宇宙人の痕跡があるのかも!?

宮山観音堂みややまかんのんどう

宮山観音堂はかつてあった真言宗の寺院・無量院の観音堂です。堂宇は享保8年(1723年)の造営で、筑西市の指定文化財です。 手がけた棟梁は現在の笠間市出身の大工で、後に成田山新勝寺の三重塔などもてがけております。 非常にバランスが良い堂宇で、特に内部の装飾は素晴らしく、一見の価値アリです。
また、本尊は十一面観音菩薩であり、こちらも筑西市の指定文化財です。かつての神仏習合時代には、鹿島神の本地仏として祀られていました。 現在は毎年、成人の日に御開帳されます。

こちらの観音様は牛馬の守護としても崇敬を集めていたようです。また、かつては「草競馬」も行われていたようで、古老が次のように語っています。

宮山の観音様では草競馬があったんだ。本尊が馬頭観音様だから、馬に乗って来る人も多かったし、競馬をするのにやはり良かったですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
競馬のある日には、境内ではシマザサという葉っぱが売られていたようです。それを買ってきて馬に食べさせると病気にならいらしい。
昔は農馬がいっぱいいたので、草競馬というイベントは大変に人気があったようです。 お金を賭けるような競馬ではなく、走らせて一等になったとか二等だったとか自慢のネタにしていました。 現在では農馬は機械に置き換わり、競馬する場所も無くなってしまいました。 道端にひっそりと佇む「馬頭観音」の野仏だけがその当時の面影を残すだけです。

宮山石倉遺跡みややまいしくらいせき

鹿島神社の後ろにある巨石群です。標高は48mあり、この辺りでは最も高い場所になります。 この遺跡の巨石群が自然の造形によるモノか、人工的なモノか、議論は尽きませんが、古代から祭祀がここで行われていた事には違いはないはずです。
遺跡の巨石には「弘法大師の硯石」という名前も付けられていて、ここに溜まった水で墨を擦って習字をすると字が上達するという言い伝えがあります。 また、古老が次のようにも語っています。

ここの所には、大きな硯石とも言うんだが、石があるんだよ。 そこには穴があんだよ。それは、いかなる旱魃でも水が絶えたことがないって言うんだ。 硯石っていう石はその端の方に、少し窪みがあるんだよ。 その水を少し分けてもらってきて、お粥炊いて食べると、お乳が出るなんて説もあったんだな。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
戦時中に飛行場を作るために石を取ってしまったので、遺跡の西側は少々なだらかになっていますが、東側は手付かずのまま残されています。 東側に沿って遺跡の石を注意深く観察すると、人面のようなモノが彫られている巨石が見つかるハズです。是非、探してみてくださいね!

雲井宮郷造神社くもいのみやくにのみやつこじんじゃ

筑西市内では最古の神社で、新治國にいばりのくにの一之宮でした。 新治國とは、律令制に従い常陸國ひたちのくにが成立する前の國の事です。 御鎮座は景行けいこう天皇41年と伝わり、西暦で言うと110年頃になります。 ただ、考古学的な観点から鑑みると古墳時代の4~5世紀頃と考えるのが妥当でしょう。

現在のご祭神は、主祭神に武甕槌命たけみかづちのみこと
左配祀神に、大国主命おおくにぬしのみこと建御名方命たけみなかたのみこと
右配祀神に、事代主命ことしろぬしのみこと毗那良珠命ひならすのみこと

日本神話「國譲り」の主役が勢揃いしていますね。その中で聞きなれない御名が毗那良珠命かと思います。 この御祭神は、新治國の國造くにのみやつこで、新治の國を開拓した人物になります。 順番としては次とようになります。開拓の折に、毗那良珠命がこの地に武甕槌命・大国主命・事代主命を祀りました。 その後、毗那良珠命の子孫である車持命くらもちのみことが祖神として毗那良珠命を配祀しました。 建御名方命は小田家による配祀と伝わっています。 また、車持命の名前が現在の「倉持」の由来になっているそうです。
ちなみに毗那良珠命の墓と言われる前方後円墳が筑西市内に残っています。それが葦間山あしまやま古墳です。 宮山からはちょっと距離がありますが、お参りしてみてはいかがでしょうか?