安倍晴明は、延喜21年(921年)に生まれ寛弘2年(1005年)に没した平安時代中期に実在した陰陽師である。賀茂保憲に陰陽道を学び、天文道を伝授された。51歳の時に天文博士に任じられ、その後、天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった。
安倍晴明の出生に関しては特に謎が多く、複数の伝承が日本各地に伝わっている。その中のひとつに、晴明生誕の地として現在の筑西市にある「猫島」という特定の地名が、陰陽道の注釈書とも言われる『簠簋抄』(作者・成立年代は諸説あり)に登場し、以下のように書かれている。
しかしながら、ここに確固たる根拠はなく、猫島に残る「晴明舟つなぎの柳」「晴明橋」「晴明塚」といった名辞だけがこの伝承を支えている。何故、猫島なのか。現状、その手掛かりを得ることは真に困難であり、晴明生誕伝説の謎をより一層深めている。
安倍晴明の出生について(生年月日や生誕地など)確実なことは分かっておりません。
生年月日については、没年月日と年齢が分かるのでそこから逆算しての算出に依ります。
生:921年2月21日(延喜21年1月11日)
没:1005年10月31日(寛弘2年9月26日)
平安時代を生きた人物で、この当時としては長寿で85歳で亡くなりました。
生誕地に関しての情報は、後世に書かれた複数の文書の中に見ることができますが、史実としての裏付けに足る証拠が十分とは言えない状況です。
その中のいくつかを紹介しましょう。
現在、私たちは「晴明」を「セイメイ」と当たり前のように読んでいますが、実は平安時代当時にどういう読み方をしていたか、確実なことは分かっていません。 「ハルアキ」「ハルアキラ」「ハレアキラ」・・・色んな可能性があります。大河ドラマ『光る君へ』では「ハルアキラ」と読んでいますね。
後世の創作物による脚色のせいか、幼少期から呪術を行う天才陰陽師のイメージがありますが、安倍晴明という名前が歴史の表舞台に登場するのは、彼が40歳の時。
この時に晴明は陰陽寮で陰陽道を学ぶ学生として、初めて文書の中に登場します。
それ以前の晴明が何を生業としていたかについては、よく分かっていませんが、朝廷内の下級官吏として雑務を行っていたらしいのです。
その生活の中で陰陽道に興味を持ったのか、もともと天地に関する勘が鋭かったのかは分かりませんが、数々の陰陽師に弟子入りを志願します。しかしながら、尽く断られました。
その中で唯一、賀茂保憲だけが晴明の術の実践力を評価し、弟子入りが認められました。
この時の晴明の陰陽道は独学または自己流に近いものだったのでしょう。正しい知識を学びなおすために陰陽寮で勉強をしていたと考えられます。
また、「術」というものは、「師匠から弟子への伝授」という段階を経ないと意味をなさない、という思いもあったかもしれません。
それでも実践力が高かったために、師匠の保憲のアシスタントとして活躍の場が増えていきます。
晴明52歳の時に天文博士を任ぜられ、57歳の時に師匠の賀茂保憲が亡くなります。
師匠の死後は、晴明が陰陽道の第一人者としてより頭角を現し、より天皇に近い所で仕事をするようになりました。
そして、85歳の時に亡くなりました。
猫島の高松家に代々伝わる『晴明伝記』を読み解いて行きましょう。
まず冒頭に「晴明博士は吉備真備の子孫であり、常陸國真壁郡猫島に故郷がある。」と記されています。
歴史の教科書で習ったことをよぉーく思い出してみると、若干「?」な部分がありますね。
以下、本文へと続きますが、内容が分かりやすように箇条書きで追っていきます。
「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉成る しの田の森の うらみ葛の葉」
という詩を残して消えてしまったという。
いかがでしょうか?・・・つまるところ「晴明伝記」のオリジナル版は、承久年間に晴月と名乗る人物が書き記した文書になりますが、
そのオリジナル版は戦乱で燃えて無くなってしまいました。
その後、口伝でのみ残された内容を宝永8年(1711年)に版木に書き起こしました、という流れになっているようです。
まず気になるところは、吉備真備が託した少年が安倍晴明である場合、時代が200年くらい飛んでしまっている所ですね。
吉備真備の没年は775年、安倍晴明の生誕は921年・・・。
「3月に乗じて晴明と名付けた」という辺りは、良い感じですね。晴明もとい清明は、二十四節気の三月節(旧暦2月後半から3月前半)を指します。
現在の暦では4月5日頃、桜が満開となる季節です。
晴明が65歳のころに一度、猫島に戻ってきているという部分も良いですね。茨城県内には「晴明」と名がついている川とか、確かにいくつかあります。
晴明の死から200年後に晴月という人物がやってきた部分・・・この人は安倍晴明の子孫でしょうか。ここらへんも謎ですね。
ファンタジー要素は多いと感じますが、吉備真備が遣唐使として唐に渡った年など史実に正しい部分もあります。なかなか判断が難しい所です。
最終的にどう考えるかは皆さんそれぞれかなと思います。
個人的には文書の中に気になる部分がいくつかあります。表紙を捲った最初に書いてある二柱、速秋津彦神・速秋津姫神。
この神は、祓戸大神の四柱のうちの一柱である速開都姫神と同神であり、
祓詞という祝詞の中で、
瀬織津姫神から受け取った罪穢れを川と海の境で飲み込む神として奏上されます。
また古事記に登場する水戸神と同神とも言われ、いわゆる、河口や港を司る神でもあります。
さらに神名の表記(使っている漢字)に注目すると、この表記は先代旧事本紀の第一巻「陰陽本紀」と同じです。
つまり、この神は完全に神道の神であり、当時としては主流だった神仏習合的な扱いではありません。
また、あまりパッと出で名前が出てくる(一般民衆が親しみやすい、或いは、分かりやすい)神ではないので、何らかの深い意味があっての記述かと考えられます。
この文書の本質はここにあるのではないか、と個人的な興味を掻き立てられます。
明野町史資料第二十三集「明野の聞き語り」の中に、古老が安倍晴明について語っています。いくつかを抜粋してご紹介します。
簠簋抄とは、陰陽道に基づく占術の専門書に関する注釈本とされます。作者や成立年代に関しては不詳。
現存する最古の本は江戸時代の寛永4年(1628年)に作られた活字版であり、これは国立国会図書館デジタルコレクションの中で閲覧することが可能な状態となっています。
特に、簠簋抄 5巻 [1]の前半は、高松家の「晴明伝記」の内容とほぼ同じと読める部分が多くあります。
ただし、情報量の多さは簠簋抄のほうが勝り、その差を鑑みると、簠簋抄を参考にしつつ晴明伝記(宝永版・高松家現存)を書き起こしたのではないかと考えられます。
簠簋抄と晴明伝記との間の情報の差分を箇条書きにしてみます。
簠簋抄ではセイメイを「清明」と表記しています。
また、吉備真備が宝書を渡した少年≠安倍晴明という仕立てで話が進むので、晴明伝記で気になった200年のギャップがきちんと処理されています。
『安倍晴明物語』という本が寛文2年(西暦1662年)に刊行さえています。
この本は簠簋抄の序文をベースに、平安・鎌倉・室町時代に刊行された説話集に採録された晴明の伝承のいくつかをピックアップして挿入し、
それらがあたかも時系列順に生じたかのような体裁をとっているようです。
ここから先は個人的な予測です。『安倍晴明物語』や『簠簋抄』、そのほか『先代旧事本紀』などを知った
相当に賢い猫島村民が創作したオリジナル晴明物語が『晴明伝記』なのではないかとも思えるのです。
ただ、『安倍晴明物語』も『晴明伝記』も根っこは『簠簋抄』に繋がっているので、「晴明の生まれが猫島」という部分が、猫島村民による100%創作だということにはなりません。
そもそも『簠簋抄』がいつの時代に誰が書いたのもなのか・・・それが最大の謎なのです。
猫島という地名の由来には諸説あるようです。まずひとつ目として、史実を追いながら、高松家に遺る「晴明伝記」載る物語を紹介しましょう。
もうひとつ由来に関わる興味深いお話をしましょう。これは明野に住む古老が語ったお話です。
江戸時代には猫島の集落の中に「晴明橋」という小字があったようです。また、古老の語るところによれば、晴明橋という名前の橋もあったとの事。集落内の溜池から流れ出た小川が米御膳神社の西側の水田の水を補っていました。この小川に架かっていた橋を「晴明橋」と呼んでいたそうです。この橋は安倍晴明によって、地元産の御影石を使って設計されたと伝わり、堰堤を兼ねた橋で、どんな洪水や増水にも耐え、水が橋を超えることは無かったと言われます。
小川や晴明橋は区画整地の時に無くなってしまいました。橋があったとされる場所は、現在は「晴明橋公園」となっており、説明碑と晴明橋の石(元晴明橋石)が建てられています。
猫島の高松家の敷地内、北西の位置に鎮座している小さな神社です。中央に大きめの祠、両脇に小さめの祠が並んでいます。
高松家に伝わる「晴明伝記」によれば、安倍晴明の先祖である阿倍仲麻呂を八幡大菩薩として祀り、信田明神として稲荷大明神を祀っているとのこと。信田明神とは晴明の母・葛の葉の事です。高松家では12月8日を祭日として赤飯を炊き、お供えをしています。
陰陽道では、北西という方角を「天門」と言います。天門は特に重要で、魑魅魍魎・怨霊・災いが出入りする忌むべき方角であると説きます。この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌すると信じられ、氏神や屋敷神を祀ることが大吉であると言われます。
猫島に鎮座する神社です。創建は今から千年以上前の天慶・天暦年間(西暦950年頃)と言われております。 ご祭神は保食神で、五穀をはじめとする食物の神、養蚕の神であります。 神社創建に関して次のような話が伝わっています。
武甕槌命を祀ります。
創建については不詳ですが、延宝7年(1679年)の「新鹿島大神宮之縁起」に興味深い記述があります。
大化の改新で有名な中臣鎌足の父である中臣御食子が、この神社の創建に関わっているというのです。
中臣御食子は天児屋根命の子孫で、鹿島神宮の神官を務めていました。
その職務の中で宮山を地域を訪れた時に、鹿島神を勧請したとの事。
神仏習合の時代には、観音堂(宮山観音堂)の奥院として信仰されていました。
また隣にある駒形神社に祀られている馬像も神仏習合の名残です。
宮山観音堂の観音様は牛馬の守護を司ると崇敬されていましたが、神仏分離の時に観音堂から分離されて、現在の駒形神社に祀られるようになったようです。
ある古老の語るところによれば、宮山観音堂の本尊は馬頭観音と言われていたらしい。
ただ、現在、宮山観音堂の本尊は十一面観音なので齟齬があります。かつては馬頭観音もあったのか、単なる誤認なのかは不明です。
鹿島神社に至る長い参道について面白い話を古老が語っています。
宮山観音堂はかつてあった真言宗の寺院・無量院の観音堂です。堂宇は享保8年(1723年)の造営で、筑西市の指定文化財です。
手がけた棟梁は現在の笠間市出身の大工で、後に成田山新勝寺の三重塔などもてがけております。
非常にバランスが良い堂宇で、特に内部の装飾は素晴らしく、一見の価値アリです。
また、本尊は十一面観音菩薩であり、こちらも筑西市の指定文化財です。かつての神仏習合時代には、鹿島神の本地仏として祀られていました。
現在は毎年、成人の日に御開帳されます。
こちらの観音様は牛馬の守護としても崇敬を集めていたようです。また、かつては「草競馬」も行われていたようで、古老が次のように語っています。
鹿島神社の後ろにある巨石群です。標高は48mあり、この辺りでは最も高い場所になります。
この遺跡の巨石群が自然の造形によるモノか、人工的なモノか、議論は尽きませんが、古代から祭祀がここで行われていた事には違いはないはずです。
遺跡の巨石には「弘法大師の硯石」という名前も付けられていて、ここに溜まった水で墨を擦って習字をすると字が上達するという言い伝えがあります。
また、古老が次のようにも語っています。
筑西市内では最古の神社で、新治國の一之宮でした。
新治國とは、律令制に従い常陸國が成立する前の國の事です。
御鎮座は景行天皇41年と伝わり、西暦で言うと110年頃になります。
ただ、考古学的な観点から鑑みると古墳時代の4~5世紀頃と考えるのが妥当でしょう。
現在のご祭神は、主祭神に武甕槌命。
左配祀神に、大国主命と建御名方命。
右配祀神に、事代主命と毗那良珠命。
日本神話「國譲り」の主役が勢揃いしていますね。その中で聞きなれない御名が毗那良珠命かと思います。
この御祭神は、新治國の國造で、新治の國を開拓した人物になります。
順番としては次とようになります。開拓の折に、毗那良珠命がこの地に武甕槌命・大国主命・事代主命を祀りました。
その後、毗那良珠命の子孫である車持命が祖神として毗那良珠命を配祀しました。
建御名方命は小田家による配祀と伝わっています。
また、車持命の名前が現在の「倉持」の由来になっているそうです。
ちなみに毗那良珠命の墓と言われる前方後円墳が筑西市内に残っています。それが葦間山古墳です。
宮山からはちょっと距離がありますが、お参りしてみてはいかがでしょうか?