出典:国土地理院
御祭神の日本武尊についてお話しするのじゃ。
いにしえの皇族で、父は景行天皇、母は播磨稲日大郎姫じゃ。ご神徳と得意分野は、
倭建命倭建御子倭男具那命小碓命
小碓尊小碓王日本武日本武尊日本武皇子日本童男
日本武命
倭建尊
倭健命日本武之尊日本武大神日本武尊命日本武神武神日本武尊etc...
日本古代史上の伝説的英雄。その実在性については諸説あり、大和朝廷の版図拡大期における数々の英雄伝説が集約された存在であると考えられている。
景行天皇の御子で幼年期の名を小碓尊という。なかなか粗暴な性格だったようで、実の兄をバラバラにして殺してしまう。余りに粗暴なため、父・景行天皇は小碓尊を熊曾建の討伐のため西に向かわせた。ヤマトタケルは女装して潜入し、熊襲の首長である熊襲建を討ち取った。この時、熊襲建から「日本武尊」の名を贈られたとされている。
その後、天皇から東国平定を命じられた日本武尊は、伊勢神宮に立ち寄り、叔母である倭姫命から草薙剣を授かった。この剣は、駿河での火攻めにおいて、周りの草を薙ぎ払って難を逃れる際に活躍し、以来「草薙剣」と呼ばれるようになった。また、相模から上総に渡る際、嵐に遭った際には、后である弟橘媛が身を投じることで海神の怒りを鎮め、難を乗り越えている。
常陸國風土記においては倭建天皇の名で登場する。また古事記によると、東征を終えて、甲斐国(現在の山梨県)の酒折宮に立ち寄った夜、遠く離れた常陸の筑波山を思い出し、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
(常陸国(現在の茨城県)にあった新治の地と、筑波山を越えてから、一体、何晩泊まったことだろうか・・・)
と歌を詠んでいる。
東国を平定し、帰途についた日本武尊は、尾張で宮簀媛と結婚する。しかし、そこで草薙剣を置いて伊吹山の荒神を討ちに行ったため、剣の加護を失い病に倒れた。その後、伊勢の能褒野で最期を迎え、亡骸は大きな白鳥となって天に昇ったという伝説「白鳥伝説」が残されている。その陵墓とされる場所は、複数の候補地があり、日本各地に日本武尊の足跡を伝える神社や伝承地が点在している。
『古事記』や『日本書紀』といった古代の文献に登場する日本武尊は、その子供の頃から粗暴で危険な一面を持つ人物として描かれている。特に、双子の兄である大碓皇子を無残な手口で討ち取った逸話は、父である景行天皇に恐れられるほどであった。この粗暴な性格は、日本武尊が成人してからの行動にも影響を与え、その後の熊襲討伐にもつながっていくのである。
父である景行天皇からの命を受け、私は東国へ向かうことになった。兄殺しの罪を問われた私は、父上にとって邪魔な存在であったのだろう。熊襲討伐の次なる試練として、この遠征を命じられたとき、私は父の思惑を悟りながらも、武人としての血が沸き立つのを感じた。私は再び、大和の平和のために剣を振るうこととなる。【日本武尊の性格と熊襲討伐】
熊襲討伐のきっかけは、兄殺しの行為に恐れをなした景行天皇が、日本武尊を遠征に送り出し、国政から遠ざけようとしたことに始まる。景行天皇は日本武尊に「西方の熊襲が言うことを聞かないので、討伐してこい」と命じたのである。事実上の追放にも等しいこの命令は、帝王学を学ばず、力の行使ばかりに長けた日本武尊を、危険視した父の苦悩の現れでもあった。しかし、日本武尊は父の思惑をよそに、この困難な使命を果たすべく、計画を立てていく。
九州に上陸した日本武尊は、熊襲の地へと向かった。そこで、熊襲の首長である川上梟帥が新築の家で宴を催しているという情報を得る。粗暴さゆえに力ずくで敵を打ち破ってきた日本武尊だが、ここで思わぬ策を講じる。倭姫命の衣装をまとい、美少女に扮して宴に忍び込んだのである!
宴の席で、酒に酔った川上梟帥は、目の前の美しい乙女に心を奪われ、警戒を解いてしまう。日本武尊は、その隙を見逃さず、懐から剣を抜き放ち、梟帥の胸を突き刺した。川上梟帥は、死に臨んで日本武尊の正体を知り、その勇敢さと大胆な手口に感銘を受け、自らの武勇を象徴する称号である「タケル」を授けた。これにより、日本武尊は「倭建」の名を得ることとなった。
熊襲討伐は、日本武尊の粗暴な性格と、それを制御する父との関係が複雑に絡み合った結果であった。父に命じられたとはいえ、その討伐方法は、彼の子供の頃から変わらない、目的のためには手段を選ばない冷酷さを示している。しかし、この伝説は、大和朝廷による地方支配が拡大していく過程を物語る重要な説話であり、日本武尊が伝説的な英雄として語り継がれるきっかけとなったのである。
【日本武尊、東国平定の旅を語る】
伊勢神宮で叔母である倭姫命と再会した。叔母は、私の身を案じ、涙ながらに神聖な剣と火打ち石の入った袋を授けてくださった。この剣は、素戔嗚尊が八岐大蛇から手に入れたという天叢雲剣(後の草薙剣)であった。叔母の優しい心遣いに、私は胸が熱くなった。この旅が、決して父上の私への罰だけではないのだと、そう思いたかった。
東国への道のりは険しかった。駿河国に差し掛かったとき、土地の豪族が私を欺き、広野に火を放った。炎はあっという間に広がり、私は絶体絶命の窮地に陥った。しかし、私は冷静であった。倭姫命から授かった火打ち石と草薙剣を思い出したのだ。剣で草を刈り払い、火打ち石で迎え火を放つと、炎は逆風に乗り、敵を焼き尽くした。その豪族たちは、私の武勇と知略に震え上がったことだろう。私は、再び勝利を収めた。この勝利は、私の武人としての自信をさらに強固なものにした。
走水の海を渡る際、激しい嵐に遭遇した。船は荒れ狂う波にもてあそばれ、今にも転覆しそうであった。このとき、私の妻である弟橘媛が、海の神の怒りを鎮めるため、自ら海に身を投じた。彼女の決意に、私はただただ絶句した。愛する妻の犠牲によって、嵐は収まり、私は無事に上総国に上陸することができた。しかし、私の心には、深い悲しみが刻まれた。木更津の地で、妻が流れ着いていないものかと探し回っていた7日目に、浜辺に刺さる櫛を見つけた。それは、我が妻の櫛だった。私はそれを握りしめ、弟橘媛を想い、泣き崩れた。妻が本当に死んでしまったのだと悔やんでも悔やみきれない。それは、私にとって大きな喪失であり、この遠征がもたらした代償の大きさを痛感させられた。
東国平定は順調に進み、私は各地の蝦夷や不服従の国々を平らげた。しかし、私の心は満たされなかった。武功を上げても、父上からの温かい言葉はなかった。私は、孤独な戦いを続けていた。帰路の途中、甲斐國の酒折宮で、かがり火を焚いていた老人に、こう問いかけた。
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
(新治、筑波の地を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たのか)
そして老人はこう答えた。
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
(日数を重ねて、夜では九夜、昼では十日ですよ)
それは、久々に私が感じた安らぎのひと時だった。
大和へ戻る途中、ついに、私は病に倒れた・・・。あれは、伊吹山の神の存在を知った時だったと思う、私はこう言った。
「あの神は、素手でも退治できるだろう」と・・・。
その傲慢さが、神の怒りを買ったのだ。山へ入ると、大きな白猪に出くわした。神の使いに違いないと私は考えた。だが、草薙剣を持たない私は、その白猪を打ち殺さず、ただ放ってしまった。すると、白猪は突然姿を変え、巨大な白蛇となった。それは紛れもなく、伊吹山の神の本体であった。神は、私を襲った。激しい氷雨と氷の塊を降らせ、私を苦しめた。私は毒気にあてられ、正気を失いかけた。どうにか山の麓まで逃げ延びたものの、毒に侵された体はもう動かすことすら出来なくなっていた。
折れ曲がった足を引き摺り、なんとしても大和へ戻りたい一心だった。だが尾張國の能褒野で、私の力は尽きた。
倒れ込み、天を仰ぐと、父上の顔が浮かんだ。私は、父上に認められたかった。ただそれだけだった。しかし、私は、父上に愛されることは最期まで無かった。
遠くなる意識の中で、私の魂は白鳥となり、青空へと舞い上がった・・・。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。