出典:国土地理院
御祭神の国常立尊についてお話しするのじゃ。
神世七代の神で、先代が天之常立神じゃ。ご神徳と得意分野は、
国之常立神
国常立尊国底立尊
国之常立命国之底立命国常立命国常立大神国常立神國常立命國常立尊大元尊神etc...
神世七代の第1代。天空神。
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。
そもそも国常立尊が目立ちだすのは、吉田神道が興隆してからだと言われる。吉田神道の創始者である吉田兼倶は、国常立尊を天之御中主神と同じく宇宙の根源神とみなし、全てを超越する究極的な神と位置づけた。そういった背景もあり、神仏分離により改組されたときに、各地の妙見社の一部には、国常立尊を祭神に改めた社もあったようだ。
中世から近世にかけての神仏習合思想において、天地開闢の根源神である国常立尊が、大乗仏教の三身、すなわち法身、報身、応身の考え方と習合した。これは、日本の神々が仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が深化した結果、神道の根源的な世界観を仏教の深遠な教えで解釈しようとした動きの中で生まれたのである。また、中世の文献である『神道集』の解釈では、下記のようになっている。
木曽御嶽信仰は本来、長野県と岐阜県にまたがる霊峰・木曽御嶽山を中心とする山岳信仰であった。古来、山そのものが神聖視されていたが、やがて神仏習合が進み、特に修験道の影響が色濃くみられるようになる。【木曽御嶽神社と国常立尊】
江戸時代には、覚明行者や普寛行者らが登山道を整備し、一般民衆の登拝を奨励したことで、その信仰は広く普及した。当時の御嶽山は、修験道の中心である蔵王権現信仰と深く結びついていた。しかし、明治時代に入り、神仏分離の政策が進められると、従来の信仰形態は存続の危機に直面することになる。
この状況に対し、御嶽信仰の存続を図った下村応助らが、教義の再編を試みた。彼は、それまでの主神であった御嶽山座王権現を「御嶽大神」と呼び変え、祭神を国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱としたのである。これにより、御嶽信仰は神道的な色彩を強め、やがて教団として認可されるに至り、現在の御嶽教が成立した。
国常立尊は『日本書紀』において最初に登場する、原初の神とされる存在である。万物の根源神、宇宙の創造神として、吉田神道などでも重要視されていた。普寛行者が吉田神道を学んでいたことから、国常立尊が御嶽信仰の祭神として据えられた背景には、こうした影響があったと推測される。御嶽信仰において、国常立尊は万物生成の根源神として、御嶽大神の中心的な存在に位置づけられたのである。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。