茨城郡
【原文・本文】
東香嶋郡、南佐禮流海、西筑波山、北那珂郡。
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古老曰、昔在國巢。俗語、都知久母、又云、夜都賀波岐。山之佐伯、野之佐伯。普置掘土窟、常居穴。有人來、則入窟而竄之。其人去、更出郊以遊之。狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、彌阻風俗他此時、大臣挨黒坂命伺候出遊之時、以茨蕀施穴内、即縱騎兵、急令逐迫。佐伯等如常欲走而歸。則土窟盡繋茨蕀衝之害疾死散。故取茨蕀以著縣名。
所謂茨城郡、今存那珂郡之西、古者家所置、即茨城郡内。風俗諺云、水依茨城之國。
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或曰、山之佐伯、野之佐伯、自為賊長、引率徒衆、横行國中、太為劫殺。時黒坂命規滅此賊、以茨城造、所以地名、便謂茨城焉。茨城國造初祖多祁許呂命、仕息長帯比賣天皇之朝、當至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人。中男筑波使主、筑波郡湯座連等之初祖。
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從郡西南、近有河間、謂信筑之川。源出自筑波之山、從西流東、経歴郡中、入高濱之海。夫此地者、芳菲嘉辰、揺落凉候、命駕而向、乘舟以游。春則浦華千彩、秋是岸葉百色。聞歌鶯於野頭、覧儛鶴於渚戈。社郎漁嬢逐濱洲以輻湊、商竪農夫、棹䑧艖而往来。況乎三夏熱朝、九陽至夕、嘯友率僕、並坐濱曲、騁望海中。濤氣稍扇、避暑、袪鬱陶之煩、岡陰徐傾、追凉者軫歓然之意。詠歌云、
多賀波麻尓、支與須留奈彌乃、意支都奈彌、與須止毛與良志、古良尓志與良波。
又云、
多賀波麻乃、志多賀是佐夜久、伊毛乎、比川麻止伊波、阿夜志古止賣志川。
郡東十里、桑原岳。昔倭武天皇停留岳上。進奉御膳時、令水部新掘清井、出泉浄香飲喫尤好。勅云、能渟水哉。由是、里名今謂田餘。
【書き下し】
東は香嶋郡、南は佐礼流海、西は筑波山、北は那珂郡。
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古老曰く、昔國巣在りき。俗の語に都知久母、又、夜都賀波岐と云ふ。山の佐伯、野の佐伯。普く土窟を置け掘りて、常に穴有る人来れば、則ち窟に入りて竄る。其れ人去らば、更郊に出て遊く。狼の性、梟の情にして、鼠のごとく窺ひ掠め盗み、招慰へらゆること無く、彌風俗と阻てり。此の時、大臣の挨黒坂命は出で遊きの時を伺候ひて、茨蕀を以て穴の内に施き、即ち騎兵を縦ちて、急に逐ひ迫めしむ。佐伯等、常の如く欲く走り帰る。則ち、土窟の茨蕀に尽く繋りて、衝き害疾はえて、死り散る。故、茨蕀を取りて縣の名と著しき。
所謂茨城郡、今は那珂郡の西に存り。古者の家を置ける所は、即ち茨城郡の内なり。風俗の諺に云く、水依りて茨城の國なり。
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或は曰く、山の佐伯、野の佐伯、自ら賊の長と為りて、徒衆を引率て、國中を横に行て、太きに劫め殺き。時に黒坂命は此の賊を規り滅ぼさむとして、茨を以て城を造りき。所以、地の名を、便ち茨城と焉に謂ふなり。茨城の國造の初祖、多祁許呂命、息長帯比売天皇の朝に仕へ、品太天皇が誕れませる時に至るまで当たれり。多祁許呂命、子八人有り。中男、筑波使主は、筑波郡の湯坐連等の初祖なり。
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郡の西南に、近く河間有り。信筑の川と謂ふ。源は筑波の山より出て、西より東に流れて、郡の中を経歴て、高浜の海に入る。夫此の地の者、芳菲嘉き辰、揺落る凉しき候、駕に命て向ひ、舟に乗りて、游ぶ。春は浦の華千に彩り、秋は是岸の葉百に色く。鶯の歌を野の頭にて聞き、鶴の儛を渚に覧る。社郎と漁嬢は濱洲を逐りて輻湊まり、商竪と農夫は、䑧艖を棹して往来ふ。況乎、三夏の熱き朝、九陽の至る夕、友を嘯び僕を率ゐて、浜曲に並び坐りて、海中を騁せ望む。濤の氣稍く扇げば、暑きを避け、鬱陶しきの煩ひを袪き、岡の陰、徐に傾けば、凉しきを追ふ者は歓然の意を軫かす。詠歌に云く、
多賀波麻尓、支與須留奈彌乃、意支都奈彌、與須止毛與良志、古良尓志與良波
又云く、
多賀波麻乃、志多賀是佐夜久、伊毛乎、比川麻止伊波、阿夜志古止賣志川。
郡の東十里、桑原岳あり。昔、倭武天皇、岳の上に停留まりたまひき。御膳を進奉し時、水部をして新に清き井を掘らしめたまふ。出泉、浄く香しく、飲喫に尤好。勅云りたまひしく、能く渟る水かな。是に由て、里の名を田餘と今に謂う。
【現代語訳】
東は香島郡、南は佐礼流海(=霞ヶ浦)、西は筑波山、北は那珂郡である。
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古老の語るところによれば、昔、国巣という者がいた。土地の人の言葉では、「つちぐも」或いは「やつかはぎ」とも言った。いわゆる、山の佐伯とか野の佐伯という者である。そこらじゅうの土の穴倉を掘っていて、いつもその穴の中で暮らしていた。人が来るようなことがあれば、すぐに穴に潜って隠れてしまう。人が去ってしまえば、また表に出てウロウロしていた。狼とフクロウのような素性をし、ネズミのように気配を殺しては物を盗んだりして、手なづけられることもなく、ますます土地の人たちとは隔たる一方であった。そんな時、大臣と同族であった黒坂命が現れ、彼らが出歩いている時を見計らって、茨を穴の内側に敷き詰めて、騎兵を放って急激に追い立てた。佐伯どもは、いつものように走って逃げ帰っていった。すると、穴の中に仕掛けてあった茨にことごとく引っかかり突き刺さって、死んだり逃げ出したりした。こういう事があったから、茨を捩って県の名前とした。
いはゆる茨城郡は、今は那珂郡の西にある。元々の郡家が置かれた場所が、茨城郡の中である。土地の人の諺には「水に依て茨城の国」というものがある。
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あるいは、こういう話もある。山の佐伯と野の佐伯は、自ら賊長となり手下を引き連れて、国内をうろつき周り、堂々と人殺しをやっていた。この時に黒坂命は、この賊を滅ぼそうと茨の城を造った。故に、土地の名を茨城と言うようになったのである。茨城の国造の初代、多祁許呂命は、息長帯比売天皇(=神功皇后)の朝廷に仕え、品太天皇(=応神天皇)が誕生された時までいたという。多祁許呂命には八人の子がいた。その中の男子である筑波使主は、筑波郡の湯坐連の初代である。
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郡の西南の方に川がある。これを信筑川(=恋瀬川)という。源は筑波山から出ていて、西から東に向かって流れて、郡の中を横切って、高浜の海に流れ込んでいる。そもそもこの高浜の地に住む者は、春の花咲き誇るとき、紅葉になる涼しい頃合いに、馬車に乗って出掛けて、舟に乗って遊んだ。春には水辺の花が咲き誇り、秋には木の葉が鮮やかに色づく。鶯の歌を野に聞き、鶴の舞を渚に見る。農村の男子と漁師の娘はこの浜辺に集まって、商人と農夫は、小舟に乗って往来している。だから、夏の暑い朝や西陽が射す夕方には、友を誘って召使も連れて、浜辺に並んで座って、海を遥かに眺めた。波が立ち、風が吹き出せば、暑さ鬱陶しさも払いのけて、丘の影が徐々に伸びてくれば、涼を求めて集う人たちは嬉しさでいっぱいになる。こういう詠み歌もある。
「高浜に 来寄する波の 沖つ波 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば」
また、次のような詠歌もある。
「高浜の 下風さやぐ 妹を ひつまといは あやことめしつ」
郡の東に十里ほど行ったところに、桑原山がある。昔、ヤマトタケル命がその山の上にお泊まりになられた。お食事を奉る時に、水取りの役人に新しい井戸を掘らさせた。湧き出た泉は、綺麗で芳しく、飲むのには最高だった。天皇はおっしゃった、「よく貯まる水であるな。」これによって、里の名前を「田余」と言う。