茨城郡うばらきのこほり

【原文・本文】

東香嶋郡、南佐禮流海、西筑波山、北那珂郡。
   ※      ※      ※   
古老曰、昔在國巢。俗語、都知久母、又云、夜都賀波岐。山之佐伯、野之佐伯。普置掘土窟、常居穴。有人來、則入窟而竄之。其人去、更出郊以遊之。狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、彌阻風俗他此時、大臣挨黒坂命伺候出遊之時、以茨蕀施穴内、即縱騎兵、急令逐迫。佐伯等如常欲走而歸。則土窟盡繋茨蕀衝之害疾死散。故取茨蕀以著縣名。
所謂茨城郡、今存那珂郡之西、古者家所置、即茨城郡内。風俗諺云、水依茨城之國。
   ※      ※      ※   
或曰、山之佐伯、野之佐伯、自為賊長、引率徒衆、横行國中、太為劫殺。時黒坂命規滅此賊、以茨城造、所以地名、便謂茨城焉。茨城國造初祖多祁許呂命、仕息長帯比賣天皇之朝、當至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人。中男筑波使主、筑波郡湯座連等之初祖。
   ※      ※      ※   
從郡西南、近有河間、謂信筑之川。源出自筑波之山、從西流東、経歴郡中、入高濱之海。夫此地者、芳菲嘉辰、揺落凉候、命駕而向、乘舟以游。春則浦華千彩、秋是岸葉百色。聞歌鶯於野頭、覧儛鶴於渚戈。社郎漁嬢逐濱洲以輻湊、商竪農夫、棹䑧艖而往来。況乎三夏熱朝、九陽至夕、嘯友率僕、並坐濱曲、騁望海中。濤氣稍扇、避暑、袪鬱陶之煩、岡陰徐傾、追凉者軫歓然之意。詠歌云、
多賀波麻尓、支與須留奈彌乃、意支都奈彌、與須止毛與良志、古良尓志與良波。
又云、
多賀波麻乃、志多賀是佐夜久、伊毛乎、比川麻止伊波、阿夜志古止賣志川。
郡東十里、桑原岳。昔倭武天皇停留岳上。進奉御膳時、令水部新掘清井、出泉浄香飲喫尤好。勅云、能渟水哉。由是、里名今謂田餘。

【書き下し】

ひがし香嶋郡かしまのこほりみなみ佐礼流海されのうみ西にし筑波山つくはのやまきた那珂郡なかのこほり
   ※      ※      ※   
古老ふるおきないはく、むかし國巣くずりき。くにひとことのは都知久母つちぐもまた夜都賀波岐やつかはきふ。やま佐伯さえき佐伯さえきあまね土窟つちむろりて、つねあなひとれば、すなはあなりてかくる。ひとらば、またあるく。おほかみさがふくろうこころにして、ねずみのごとくうかがかすぬすみ、招慰をきこしらへらゆることく、いや風俗くにひとへだてり。とき大臣おほのおみうがら黒坂命くとさかのみことあるきのとき伺候うかがひて、茨蕀うばらもっあなうちき、すなは騎兵うまのりのつはものはなちて、にはかめしむ。佐伯さへきどもつねごとはしかへる。すなはち、土窟つちむろ茨蕀うばらことごとかかりて、害疾そこなはえて、まかる。かれ茨蕀うばらりてこほりあらはしき。
所謂いはゆる茨城郡うばらきのこほりいま那珂郡なかのこほり西にしり。古者いにしへみやけけるところは、すなは茨城郡うばらきのこほりうちなり。風俗くにひとことわざいはく、水依みずよりて茨城うばらきくになり。
   ※      ※      ※   
あるひいはく、やま佐伯さへき佐伯さへきみずかわるものおさりて、徒衆ともがら引率ひきゐて、國中くになかよこしまゆきて、おほきにかすころしき。とき黒坂命くろさかのみことわるものはかほろぼさむとして、うばらもっしろつくりき。所以ゆえにくにを、便すなわ茨城うばらきここふなり。茨城うばらき國造くにのみやっこ初祖はじめのおや多祁許呂命たけころのみこと息長帯比売天皇おきながたらしひめのすめらみことみかどつかへ、品太天皇ほむだのすめらみことれませるときいたるまでたれり。多祁許呂命たけころのみこと八人やたりり。中男なかち筑波使主つくはのおみは、筑波郡つくはのこほり湯坐連ゆゑのむらじたち初祖はじめのおやなり。
   ※      ※      ※   
こほり西南にしみなみに、ちか河間かはり。信筑しづくかはふ。みなもと筑波つくはやまよりいでて、西にしよりひがしながれて、こほりなか経歴めぐりて、高浜たかはまうみる。それところもの芳菲はなかほるときもみぢおつすずしきころのりものおほせむかひ、ふねりて、あそぶ。はるうらはなちぢいろどり、あきこれきしこのはももいろづく。うぐいすうたほとりにてき、つるまひなぎさる。社郎むらをとこ漁嬢あまをとめ濱洲はまりて輻湊あつまり、商竪あきひと農夫たひとは、䑧艖をぶねさをして往来ゆきかふ。況乎いはんや三夏なつあつあさ九陽いたゆふべともやっこひきゐて、浜曲はまべならすはりて、海中わたなかのぞむ。なみけはいややあふげば、あつきをけ、鬱陶おほほしきのわづらひをのぞき、おかかげおもぶるかたむけば、すずしきをもの歓然よろこびこころうごかす。詠歌よみうたいはく、
多賀波麻尓たかはまに支與須留奈彌乃きよするなみの意支都奈彌おきつなみ與須止毛與良志よすともよらじ古良尓志與良波こらにしよらば
またいはく、
多賀波麻乃たかはまの志多賀是佐夜久したかぜさやぐ伊毛乎いもを比川麻止伊波ひつまといは阿夜志古止賣志川あやしことめしつ
こほりひがし十里とさと桑原岳くははらのやまあり。むかし倭武天皇やまとたけるすめらみことやまうへ停留とどまりたまひき。御膳みけつもの進奉たてまつりときもひとりをしてあらたきよらしめたまふ。出泉いづみきよかぐはしく、飲喫のむ尤好いとよろしみことのりりたまひしく、たまみずかな。これよりて、さと田餘たあまりいまう。

【現代語訳】

東は香島郡、南は佐礼流海(=霞ヶ浦)、西は筑波山、北は那珂郡である。
   ※      ※      ※   
古老の語るところによれば、昔、国巣という者がいた。土地の人の言葉では、「つちぐも」或いは「やつかはぎ」とも言った。いわゆる、山の佐伯とか野の佐伯という者である。そこらじゅうの土の穴倉を掘っていて、いつもその穴の中で暮らしていた。人が来るようなことがあれば、すぐに穴に潜って隠れてしまう。人が去ってしまえば、また表に出てウロウロしていた。狼とフクロウのような素性をし、ネズミのように気配を殺しては物を盗んだりして、手なづけられることもなく、ますます土地の人たちとは隔たる一方であった。そんな時、大臣と同族であった黒坂命が現れ、彼らが出歩いている時を見計らって、茨を穴の内側に敷き詰めて、騎兵を放って急激に追い立てた。佐伯どもは、いつものように走って逃げ帰っていった。すると、穴の中に仕掛けてあった茨にことごとく引っかかり突き刺さって、死んだり逃げ出したりした。こういう事があったから、茨を捩って県の名前とした。
いはゆる茨城郡は、今は那珂郡の西にある。元々の郡家が置かれた場所が、茨城郡の中である。土地の人の諺には「水に依て茨城の国」というものがある。
   ※      ※      ※   
あるいは、こういう話もある。山の佐伯と野の佐伯は、自ら賊長となり手下を引き連れて、国内をうろつき周り、堂々と人殺しをやっていた。この時に黒坂命は、この賊を滅ぼそうと茨の城を造った。故に、土地の名を茨城と言うようになったのである。茨城の国造の初代、多祁許呂命は、息長帯比売天皇(=神功皇后)の朝廷に仕え、品太天皇(=応神天皇)が誕生された時までいたという。多祁許呂命には八人の子がいた。その中の男子である筑波使主は、筑波郡の湯坐連の初代である。
   ※      ※      ※   
郡の西南の方に川がある。これを信筑川(=恋瀬川)という。源は筑波山から出ていて、西から東に向かって流れて、郡の中を横切って、高浜の海に流れ込んでいる。そもそもこの高浜の地に住む者は、春の花咲き誇るとき、紅葉になる涼しい頃合いに、馬車に乗って出掛けて、舟に乗って遊んだ。春には水辺の花が咲き誇り、秋には木の葉が鮮やかに色づく。鶯の歌を野に聞き、鶴の舞を渚に見る。農村の男子と漁師の娘はこの浜辺に集まって、商人と農夫は、小舟に乗って往来している。だから、夏の暑い朝や西陽が射す夕方には、友を誘って召使も連れて、浜辺に並んで座って、海を遥かに眺めた。波が立ち、風が吹き出せば、暑さ鬱陶しさも払いのけて、丘の影が徐々に伸びてくれば、涼を求めて集う人たちは嬉しさでいっぱいになる。こういう詠み歌もある。
「高浜に 来寄する波の 沖つ波 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば」
また、次のような詠歌もある。
「高浜の 下風さやぐ 妹を ひつまといは あやことめしつ」
郡の東に十里ほど行ったところに、桑原山がある。昔、ヤマトタケル命がその山の上にお泊まりになられた。お食事を奉る時に、水取りの役人に新しい井戸を掘らさせた。湧き出た泉は、綺麗で芳しく、飲むのには最高だった。天皇はおっしゃった、「よく貯まる水であるな。」これによって、里の名前を「田余」と言う。