信太郡
【原文・本文】
東信太流海、南榎浦流海、西毛野河、北河内郡。
郡北十里碓井、古老曰、大足日子天皇幸浮嶋之帳宮、無水供御。即遣卜者訪占所所穿之。今在雄栗之村。
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從此以西、有高來里。古老曰、天地權輿、草木言語之時、天降來神名稱普都大神。巡行葦原中津之國、和平山河荒梗之類。大神化道已畢、心存歸天。即時随身器仗、甲戈楯劔、及所執玉珪悉皆脱屣。留置茲地、即乘白雲、還昇蒼天。
風俗諺云、葦原鹿其味若爛、喫異山宍矣、二國大獵、無可絶盡也。
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其里西飯名社、此即筑波岳所有飯名神之別屬也。
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榎浦之津、便置驛家。東海大道、常陸路頭。所以、傅驛使等、初将臨國、先洗口手、東面拜香嶋之大神然後得入。
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古老曰、倭武天皇巡幸海邉、行至乘濱。干時、濱浦之上、多乾海苔。由是、名能理波麻之村。
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乘濱里東、有浮嶋村。長二十歩、廣四百歩。四面絶海、山野交錯。戸十五烟、里七八町餘。所居百姓、火鹽為業。而有九社、言行謹諱。
【書き下し】
東は信太流海、南は南榎浦流海、西は毛野河、北は河内郡。
郡の北に十里、碓井ありて、古老曰く、大足日子天皇、浮嶋の帳宮に幸ときに、水の供御無し。即ち、卜者を遣し訪占はしめ、所所を穿しめたまひき。今も雄栗の村に在りき。
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從此西に、高來里あり。古老曰く、天地の権輿、草木の言語し時に、天降來たる神、名を普都大神と稱へ給ふ。葦原中津之國を巡り行きまして、山河の荒ぶる梗の類を和平め給ふ。大神は化道已に畢へて、心に天に帰らむと存へり。即時、身に随し器仗、甲、戈、楯、劔、及た執す所の玉珪に到るまで悉く皆脱屣給ひき。茲地にし留め置きて、即ち白雲に乗りて、蒼天に昇り還りき。
風俗の諺に云く、葦原の鹿の其の味は爛れるが若く、喫ふに山宍と異にあり、二國大き猟すれど、絶へ尽すべくも無し。
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其の里の西の飯名社、此即ち筑波岳に有る所の飯名神の別属なり。
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榎浦の津、便ち駅家を置けり。東海の大道にして、常陸路の頭なり。所以、伝駅使ら、初めに國に臨まむとするに、先づ口と手を洗め、東に面きて香嶋大神を拜み奉り、然る後に入るを得る。
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古老曰く、倭武天皇海辺を巡幸て、乗浜に行き至りき。干時、浜浦の上、海苔多く乾せり。是に由て、能理波麻之村と名く。
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乗浜の里の東に、浮嶋村有り。長さ二十歩、廣さ四百歩。四面は海に絶れ、山野と交錯れり。戸は十五烟、里は七八町余り。居る百姓は、塩を火きて業と為す。而て九の社有て、言も行も謹諱めり。
【現代語訳】
東は信太の流海、南は榎浦の流海、西は毛野川(=鬼怒川)、北は河内郡である。
郡の北に十里ほど行ったところに碓井がある。古老が語るところによれば、大足日子天皇(=景行天皇)が浮嶋の御仮宮に行幸されたときに、そこには飲める水が無かった。すぐに卜者を派遣して占わせ、所々を掘らせた。その井戸は今でも雄栗村に残っている。
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さらに西には高来の里がある。古老が語るところのよれば、「天と地の始まりに、天降って来た神がいて、名を普都大神と言った。葦原中津国を巡り、山や川の荒ぶる物怪の類を平定させた。大神は目的はすでに終えたので、そろそろ天に帰ろうかと考え始めていた。そして、身につけていた武具(兜・戈・楯・剣)、更には、玉に至るまで全部脱いでしまいここに留め置いて、すぐに白雲に乗って天へと昇り帰って行かれた。」
土地の人には次のような諺がある。「葦原の鹿の味は、やわらかく山鹿とはだいぶ違う。二国で大規模に狩ったところで、狩り尽くすこともないだろう。」
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そこから西の里に飯名社があり、これはつまり、筑波山に坐す飯名神の分神である。
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榎浦の港に、駅家を設けている。東海の道であり、常陸國に入る道の入り口でもある。よって、駅家にいる馬を使う役人たちは、初めて常陸国に入ろうとする時には、まず口と手を清めて、東に向かって鹿島大神を拝した。その上でやっと常陸国に入ることが許されるのである。
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古老が語るところによれば、ヤマトタケルが海辺を巡幸され、乗浜にお着きになった。そのときに、浜や浦の上に、海苔が多く干してあった。なので、能理波麻の村と名付けられた。
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乗浜の里の東に、浮島村がある。長さは二十歩、広さは四百歩である。四方が海に囲まれ、山と野が入り混じっている。家は十五戸程度、里は七・八町歩である。住んでいる百姓は、製塩を生業としている。そして、社が九社あり、言葉にも立ち振舞いにも謹みがある。