出典:国土地理院
御祭神の難波皇子についてお話しするのじゃ。
いにしえの皇族で、父は敏達天皇、母は老女子夫人じゃ。千栗八幡宮などにてお祀りされておるのじゃ。
詳細は地図にも示しておるし、ページをスクロールして見てみるのじゃ!
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難波王
難波皇子
難波王
難浪皇子etc...
父:敏達天皇
母:老女子夫人
古墳時代後期の皇族であり、第三十代敏達天皇の皇子である。母は春日臣の娘である老女子とされ、同母兄弟には春日皇子や大宅皇女らがいる。記紀の系譜においてその名は確認されるものの、具体的な政治的業績や個人的な逸話は乏しく、主に有力な豪族や後の貴族階級の祖先としてその存在が言及されている。
その生涯において最も特筆される事績は、仏教の受容を巡って対立した蘇我氏と物部氏の争い、いわゆる丁未の乱に際しての動向である。『日本書紀』によると、崇峻天皇2年(589年)に、敏達天皇の皇子である難波皇子は、仏教を推進する蘇我馬子に味方し、物部守屋討伐の軍に参加したとされる。この争いは、蘇我氏の勝利で終わり、仏教が本格的に受容される契機となった。
丁未の乱は、飛鳥時代の587年に起きた、崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋による大規模な権力闘争であり、日本古代史の転換点となった内乱である。当時、百済から伝来した仏教の受容を巡り、渡来系技術や新たな統治体制を志向する蘇我氏と、伝統的な祭祀と軍事を司る物部氏の対立は、世代を超えて激化していた。用明天皇が崩じた後の皇位継承問題を契機に、ついに両陣営は武力衝突へと至った。 【丁未の乱】
蘇我馬子は、泊瀬部皇子、すなわち後の崇峻天皇や、厩戸皇子、いわゆる聖徳太子といった皇族を擁し、諸氏族を糾合して大軍を組織した。対する物部守屋は、河内國の渋河、現在の大阪府八尾市付近にある自らの本拠地に強固な防衛線を築き、一族を挙げてこれに抗戦した。物部氏の軍勢は精強であり、木の上に登って矢を放つ守屋の奮戦により、一時は蘇我軍を圧倒して三度退却させるほどに追い詰めた。
この窮地において、若き厩戸皇子が四天王の像を彫り、勝利を祈願したという伝説は名高い。やがて蘇我軍の兵士が放った矢が守屋に命中し、大黒柱を失った物部軍は総崩れとなった。この結果、日本建国以来の有力豪族であった物部氏は没落し、蘇我氏による一強体制が確立されることとなった。また、この勝利によって仏教の公認が決定定的となり、法興寺などの寺院建立が本格化し、飛鳥文化の開花へと繋がっていった。
この乱は、単なる宗教論争の決着ではなく、古代の氏姓制度に基づく豪族連合体制から、仏教を統治の基盤に据えた天皇中心の中央集権国家へと移行する道筋を決定づけた政治的革命であった。守屋の敗死は、古い神権政治の時代の終焉と、東アジアの国際情勢に即応した新しい律令国家への第一歩を象徴している。丁未の乱を経て、日本は飛鳥時代という仏教興隆と官僚制導入の時代へと大きく舵を切ることとなったのである。