出典:国土地理院
御祭神の応神天皇についてお話しするのじゃ。
いにしえの皇族で、父は仲哀天皇、母は神功皇后じゃ。ご神徳と得意分野は、
品陀和氣命大鞆和気命
去来紗別尊胎中天皇誉田別尊誉田天皇
品太天皇誉田皇太子尊譽田命軽島豊明宮御宇天皇
凡牟都和希王
応神天皇應神天皇
保牟田和気命八幡大明神八幡大神八幡皇大神 八幡神凡牟都和希王品田別尊品陀別命品陀別天皇品陀別尊品陀別気命品陀和気命品陀和気天皇品陀和気尊品陀和気神宇佐八幡大神本多和気尊本多和氣尊正八幡大神襃武多和気尊誉牟田別大神誉田別之命誉田別命誉田別大神誉田別天皇誉田別神誉田和気命誉田和気神誉田皇子誉陀和気命譽田別命譽田別神etc...
第15代天皇。4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られているが、考古学的に決定的な確証はない。実在性については議論があるものの、古代日本の国家形成期における重要な存在として伝承されている人物である。『日本書紀』によれば父は第十四代仲哀天皇、母は神功皇后であり、神功皇后が新羅遠征から帰国後に筑紫で出産したとされる。
応神朝の大きな功績として挙げられるのは、大陸や朝鮮半島からの文物の積極的な導入である。百済から儒教の経典や工芸技術をもたらした王仁や、渡来人の弓月君が百済から秦氏の人々を連れてきたとの伝承は、当時の先進文化の受容を示すものとされている。これらの渡来人集団は、養蚕や機織り、土木技術など、日本の産業や文化の発展に大きく貢献した。
また、応神天皇は各地を巡行し、多くの氏族を組織化することで、大和朝廷による国土の統治を確立していった。この統治体制は、後の律令国家の基盤を築く上で重要な役割を果たした。
武勇に優れた天皇としても描かれ、平安時代には源氏の氏神となり、武士たちから戦の神として広く崇敬されるようになった。多くの八幡神社で祀られている「八幡さま」は、この応神天皇と同一視されているのである。
しかしながら、もともとの八幡神は応神天皇は全く関係がなかった。八幡神は「やはたのかみ」と言われる宇佐地域の土着神のことだったと言われる。そこに、奈良時代から平安時代のころに、応神天皇との習合が始まり、現在に至る。
応神天皇の陵墓は、宮内庁により大阪府羽曳野市にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に治定されている。この古墳は、仁徳天皇陵に次いで日本で2番目の大きさを誇る巨大前方後円墳である。
元来、宇佐の地に鎮座していた八幡神は、比売神を奉じる土着の神であったとされるが、奈良時代には、東大寺の大仏建立に際して、八幡神が都に上って仏法擁護の神託を告げたという出来事をきっかけに、中央政府との関係を深めた。この神託をもたらしたとされるのが、宇佐の神官である大神氏と、有力な渡来系氏族である辛島氏である。この時期、八幡神は八幡大菩薩とも呼ばれ、神仏習合の形をとるようになった。
八幡信仰の総本社である宇佐神宮の本殿の配置は、向かって左から第一之御殿、中央に第二之御殿、右に第三之御殿の順に並ぶ三棟からなり、このうち中央に位置する第二之御殿に、八幡神(応神天皇)ではなく比売大神(ひめおおかみ)が祀られていることが、古くから多くの謎と考察を生んできた。通常、神社の本殿では最も重要な主祭神が中央に配される慣例があるが、宇佐神宮では八幡神が向かって左端に鎮座しているのである。この異例の配置は、八幡信仰が形成された歴史的背景と、宇佐の地に古くから根付く土着信仰の存在を示唆している。
日本三大八幡宮とは、大分県の宇佐神宮、京都府の石清水八幡宮、そして福岡県の筥崎宮または神奈川県の鶴岡八幡宮を指す言葉である。八幡信仰の総本宮である宇佐神宮を筆頭に、歴史的に重要な役割を担ってきた八幡宮のなかでも、特に格が高いとされる三社を総称したもので、三社目の候補が複数存在するのは、それぞれの歴史的な重要性や文化的背景が異なるため。
【誉田別命≠八幡神って本当!?】
八幡神と誉田別命が同一視されるようになった明確な時期や理由は諸説あるが、奈良時代から平安時代にかけての時期に、仏教の護法神としての側面を持つ八幡神に、実在が確実視される最初の天皇とされる応神天皇の神格が付与されたものと考えられる。応神天皇は、母である神功皇后の「三韓征伐」の伝承や、武芸に優れた人物であったとする説話から、武神としての性格を帯びていた。そのため、古くから武勇の神として崇敬されてきた八幡神と、応神天皇の神霊が結びつけられる素地があったと推測される。
この習合を決定づけたのが、平安時代に武家社会が台頭する流れのなか、皇室を祖とする清和源氏が京都の石清水八幡宮を氏神として厚く崇敬したことである。特に源義家は石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と名乗ったことで知られ、八幡神は源氏の守護神、ひいては全国の武士の武運長久の神として信仰を集めることになった。この過程で、八幡神は天皇の系譜に連なる神として位置づけられ、誉田別命という神名が定着していったのである。このように、八幡神と誉田別命の習合は、地方の土着信仰が中央の権力と結びつき、さらに武士の台頭という歴史的背景のなかで再編されていった複雑な過程を経て成立したものである。
【宇佐神宮の本殿の並びの謎】
ちなみに、通常の序列は以下の通り。
宇佐神宮本殿の配置が更にイレギュラーになってしまった理由には、神功皇后の鎮座が後から遅れてやってきたこともあると思われる。社伝によれば、弘仁14年(823年)に第三之御殿に御鎮座とある。これは、比売大神と八幡神(=応神天皇)が祀られてから約100年後である。
仮に、元々の祀りの様子が比売大神と八幡神(=応神天皇)だけだった場合、向かって右が上位となり比売大神の社、向かって左が下位となり八幡神(=応神天皇)の社が並んでいたはずである。
そこに、後から神功皇后の社が、向かって右に加わったので、現在の配置になったと推測することができる。ただ、このタイミングで、なぜ八幡神(=応神天皇)の左側にしなかったのかという謎は残る・・・。
宇佐の地に八幡神が顕現する以前から、この地では宇佐津彦命や宇佐津姫命を祖とする宇佐氏が、比売大神を地主神として祀っていたと伝えられている。比売大神は、八幡神が都へと上る際に協力したとされる神であり、また三女神(宗像三女神)や海人族と結びつく側面も持っていた。なお、宇佐神宮の奥宮とされ、御許山山頂に鎮座する大元神社には、比売大神として宗像三女神が祀られている。
八幡神が仏教の護法神として八幡大菩薩と称され、国家的な祭祀に組み込まれていく過程で、比売大神は、八幡神の協力者として位置づけられたものの、宇佐の地においては依然として最も重要な神格として崇敬され続けた。中央に比売大神を置く本殿配置は、このような宇佐の土着信仰が、八幡神信仰が加わった後もなお、その中心的な位置を譲らなかったことを示している。
また、宇佐神宮が神仏習合の拠点として栄えたことも、この配置に影響を与えた可能性がある。奈良時代には、東大寺の大仏建立に際し八幡神が神託を告げるなど、中央との関係を深めたが、その過程で、比売大神も仏教的な尊格と結びつけられ、より重要な存在として中央に据えられたという説もある。つまり、宇佐神宮の本殿の配置は、八幡神信仰が武家の守護神として全国に広まる以前の、宇佐の地における信仰のあり方を今に伝える貴重な手がかりなのである。この謎めいた配置は、八幡信仰が単一の神格によって成立したのではなく、複雑な歴史的経緯と信仰の重層性の上に成り立っていることを物語っている。
【日本三大八幡宮】
大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、全国約4万社ある八幡神社の総本社である。神亀2年(725年)の創建と伝わり、奈良時代には東大寺大仏の建立にあたって神託が寄せられるなど、国家鎮護の神として朝廷から厚く崇敬された。
京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、平安京の裏鬼門を守る王城鎮護の社として、貞観2年(860年)に宇佐神宮から八幡神を勧請し創建された。伝承によれば、大安寺の僧であった行教が宇佐神宮から八幡神を迎え、京の南西、男山に祀ったとされる。歴代天皇や源氏をはじめとする武家の崇敬も篤く、特に源氏の氏神として信仰された歴史を持つ。八幡造の豪華絢爛な社殿は、国宝に指定されている。
福岡県福岡市に鎮座する筥崎宮は宇佐神宮、石清水八幡宮と並び信仰されてきた歴史を持つ。創建は延長元年(923年)である。
神奈川県鎌倉市に鎮座する鶴岡八幡宮は康平6年(1063年)に源頼義が石清水八幡宮を勧請したことに始まる。その後、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に現在地へ遷座し、鎌倉の街づくりの中心に据えたことから、武家政権の象徴として隆盛を極めた。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。