出典:国土地理院
御祭神の建御名方神についてお話しするのじゃ。
大国主神の子孫で、父は大国主神、母は沼河比売じゃ。ご神徳と得意分野は、
建御名方神
建御名方神
お諏訪さま健南方主神健御名方命健御名方大神健御名方富命健御名方神南宮法性大明神南方刀美命南方刀美神建南方命建南方富命建御名方刀美命建御名方刀美神建御名方命建御名方大神建御名方富命建御名方尊御名方富命神武御名方命武御名方大神武御名方神藤島明神諏訪健御名方大神諏訪大明神諏訪大神諏訪明神諏訪神諏訪神社etc...
全国に約1万社あるとされる諏訪神社(長野県の諏訪大社を総本社とする)の主祭神である。
出雲系の神格を持ち、信濃國一之宮・諏訪大社の祭神として特に知られている神である。父は建御雷神と国譲りを争った大国主神であり、母は沼河比売と伝えられる。国譲り神話において、建御雷神が出雲に降りて国を譲るよう迫った際、建御名方神はこれを拒否して力比べを挑んだ。相撲のような格闘の末に敗北し、科野国(現在の長野県)の諏訪湖まで逃走した。そこでついに追いつめられ、この地から一歩も出ないことを条件に降伏した。この経緯により、建御名方神は諏訪の地に留まり、土着の神である洩矢神を服属させて、この地の新たな支配者、すなわち諏訪明神として祀られるようになったのである。この神話は、出雲系の神が中央権力に屈服し、地方に鎮まるという歴史的事象を反映したものと考えられている。
建御名方神は武家の崇敬を集め、特に戦国時代には武田信玄などの武将によって「日本第一大軍神」として篤く信仰された。その信仰は軍事的な側面だけでなく、国土開拓や農耕、狩猟といった生活全般の守護神としても根付いている。
御柱祭に代表される諏訪信仰は、日本有数の古層を持つ信仰体系として現在も続いており、建御名方神は地域社会の守護神として深く根付いている。
私は建御名方神。この葦原中國を統治していた大国主神の息子である。ある時、父の国に高天原とやらから、傲慢な要求がもたらされた。この豊かな国を天津神の御子に明け渡せというのである。
建御雷之男神との力比べに敗れた私は、遠く信濃国の僻地、諏訪へと逃げ延びた。この時、私は二度とこの地から出ないと誓約させられ、事実上の「封印」状態に置かれたのである。しかし、この逃亡と蟄居こそが、新たな神としての我が礎を築く転機となった。
大祝とは、信濃国(現在の長野県)に鎮座する諏訪大社、特に上社における最高神職の称号である。その最大の特徴は、単なる祭祀執行者ではなく、主祭神である諏訪明神の現人神、すなわち「生き神」として崇敬された点にある。
御柱祭は、信濃國一之宮である諏訪大社において、数えで七年に一度(六年ごと、寅と申の年)執り行われる最大の神事であり、「天下の奇祭」とも称される勇壮な祭りである。正式には「式年造営御柱大祭」と呼ばれ、長野県指定無形民俗文化財、日本三大奇祭のひとつとされる。【建御名方神、国譲りを語る】
父はまず、我らが兄弟に意見を求めた。兄である事代主神は、海で漁をしている最中に問いかけられると、臆病にもすぐに同意し、舟を踏み傾けて隠れてしまった。情けない兄である。
しかし、この建御名方神は違う。私は父の前に進み出て、使者に向かって宣言した。「この国は、父上だけでなく、我ら親子の力によって治められてきたものである。なぜ、お前のような無礼な者が現れて、国を奪おうとするのか。」そして私は、この不遜な要求を退け、真の強者を示すため、使者との力比べを提案したのである。
使者として現れたのは、建御雷之男神と名乗る、いかにも勇ましい男であった。私はまず、相手の手を掴もうとした。この腕力をもってすれば、いかなる神であろうと捻り潰せるはずであった。しかし、奴の手は触れた瞬間に氷柱のように冷たくなり、あるいは鋭い剣の切っ先へと変化した。驚愕したのも束の間、今度は奴が私の手を掴んだ。その瞬間、私の頑強な体はまるで葦の茎のように容易く握り潰されてしまったのである。
その圧倒的な神威の前に、私は為す術もなく、遠く信濃国の諏訪の地まで逃げ落ちた。しかし、遂に追いつめられ、この地より外へは決しておもむかないと誓わされ、国譲りは完遂されたのである。この無念は、忘れることはない。
【建御名方神、諏訪を語る】
諏訪の地は、もとより我ら出雲の神々とは異なる、独自の信仰体系を持つ土地であった。この地を支配していたのは、土着の神である洩矢神である。私は、この地の支配権を確立するため、洩矢神に戦いを挑んだ。伝承によれば、洩矢神は鉄の輪を持つ強大な神であったが、私は神聖な藤の枝(藤杖)を掲げてこれに勝利した。これは、新しい支配者としての私と、古い時代の信仰との交代劇、あるいは融合を象徴する出来事である。
戦いに勝利した我は、諏訪の地の新たな盟主となった。私はこの地に留まり、農耕や狩猟、そして特に複雑な地形を活かした治水の術を人々に教え、この地域社会の基盤を築き上げた。私の神格は、出雲時代とは異なり、この地の生活に根ざした、より実践的なものへと変容していったのである。
また、私は自らの子孫や、服属させた洩矢神の一族をして、神事を司る大祝という特別な職務に就かせた。大祝は、私がこの世に現れた「現人神」であるとして、私の神威を人々に伝える役割を担った。私は自ら神殿に鎮座することなく、守屋山を神体山とし、また神の子孫を依代とすることで、この地に深く根を下ろしたのである。
国譲り神話における「敗者」としての側面は、諏訪においては「この地に留まりし守護神」へと反転した。武士の時代に入ると、私の力強い武勇の側面が再評価され、軍神「諏訪大明神」として広く崇敬されることとなった。
【大祝と諏訪氏・諏方家と現人神】
信濃源氏の流れを汲む諏訪氏は、古代からこの大祝職を世襲してきた名族である。彼らは建御名方神の末裔であるとされ、祭祀を通じて諏訪地域における宗教的権威と政治的・軍事的支配権を一元的に掌握していた。中世の戦国時代には、大祝がそのまま地域を統治する戦国大名としての性格も有していた。
しかし、武田信玄による侵攻などで武家としての諏訪氏が一時断絶した後、江戸時代に入ると、家康に仕えて高島藩主となった武家諏訪氏と、神事を司る社家(しゃけ)諏訪氏(主に「諏方氏」と表記され区別されることが多い)とに役割が分化された。
大祝の地位は、社家としての諏方家によって江戸時代末期まで継承された。大祝は神聖視されたため、特定の期間は「神殿」と呼ばれる居館に籠もり、女性や火の気、肉食を避けるなど、極めて特殊な潔斎生活を送ることが義務付けられていた。
この現人神としての制度が終焉を迎えたのは、明治維新の際である。1871年(明治4年)に政府が発した太政官布告により神職の世襲制が廃止され、同時に大祝職も廃止されたのである。これにより、諏方家が世襲してきた「生き神」の系譜は制度上途絶えることとなった。このため、明治期に大祝を務めていた人物が「最後の大祝」と呼ばれている。現在、諏方家は一般の家系として続いているが、かつての居宅跡(大祝邸跡)は史跡として残されている。
【御柱祭】
社殿の四隅に立つモミの巨木を十六本、新しく建て替えることを目的としている。これは、神社の聖域や祭祀場を示す標柱であり、神の降臨を仰ぐ神聖な木であるとも、社殿を更新造営する代わりであるとも解釈されている。
祭りは、まず氏子たちによる御柱の候補となる木の選定から始まり、御柱年に山中から伐採される。祭りのハイライトは、直径約一メートル、長さ約十七メートル、重さ十トンを超える巨木を、数千人もの氏子が力を合わせて人力で曳行する「山出し」と「里曳き」である。特に、上社の「木落し」は祭りの最大の見せ場であり、急峻な坂を巨木が滑り落ちる様子は、氏子たちの心意気を示す一世一代の晴れ舞台である。この際、選ばれた氏子の男性が柱にまたがり、歓声を上げながら坂を下る姿は、見る者を圧倒する。
かつては女人禁制であったが、現在は老若男女、観光客も参加できるようになった。しかし、安全性が完全に保障されているわけではない、危険を伴う神事であることに変わりはない。最終的に、曳行されてきた十六本の御柱は、諏訪大社の上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮の四社、それぞれの社殿の四隅に「建御柱」として垂直に建てられ、一連の神事は幕を閉じる。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。