出典:国土地理院
御祭神の山王権現についてお話しするのじゃ。
神仏習合の時代の垂迹神で、ご神徳と得意分野は、
山王権現日吉大神日吉山王権現日吉権現etc...
山王権現は、比叡山延暦寺の鎮守神として信仰された神仏習合の神である。比叡山の日吉大社の祭神である大山咋神を、本地仏である薬師如来の権化として捉えたものである。天台宗を開いた最澄が、中国天台山にあった山王祠の信仰に倣って、比叡山の地主神を天台宗の護法神としたことに始まる。この山王権現を祀る信仰は山王信仰と呼ばれ、天台宗の隆盛とともに全国に広まった。
そして、江戸時代初期の天台宗の僧である天海によって、「山王一実神道」という全く新しい思想が誕生する。これは仏教と神道を同等の存在として位置づける傾向が強く、神道と仏教が本来一体であり、どちらかが優れているというものではなく、相互に深い関係性を持つという考え方である。この思想は、家康を祀る日光東照宮を中心に広がった。
山王権現は、日吉大社の上七社、中七社、下七社に祀られる二十一社の神々を総称することもある。特に、上七社のうち、最も重要な神として大宮の大山咋神が、次いで二宮の大己貴神が崇敬された。こうした山王信仰は、神道と仏教が融合した山王神道という独自の教義体系へと発展した。
平安京の遷都後、比叡山が都の鬼門にあたる位置にあったことから、山王権現は都の魔除け・災難除けの神としても信仰された。また、神の使いとされる猿は「神猿」と呼ばれ、「魔が去る」「勝る」に通じるとされ、縁起物として崇敬された。この信仰は、江戸時代には徳川家康が江戸城の鎮護として日吉大社の分霊を勧請し、日枝神社として祀ったことでも知られる。
明治維新後の神仏分離令によって、山王権現という呼称は廃止され、日吉大社などの祭神は本来の神道名に復した。しかし、現在でも日吉・日枝・山王神社として全国に分布する神社は、山王権現として信仰された名残を伝えている。
権現と明神は、いずれも神仏習合の思想において日本の神を表す称号であるが、その由来と含意には明確な違いがある。【権現と明神の違い】
まず権現は、本地垂迹説に基づき、仏や菩薩が衆生を救済するために日本の神の姿となって仮に現れたものであるという、仏教側の視点から神を捉えた概念である。例えば、徳川家康は死後、朝廷から「東照大権現」の神号を贈られ、神として祀られたが、これは家康が仏の化身として神となったことを意味する。権現は、仏の力を借りて現れた仮の姿であるため、その本質は仏であるとされた。
一方、明神は、神道において優れた神、偉大な霊験を持つ神を称える称号であり、仏教の本地垂迹説の影響を受ける以前から存在した。単に「明らかな神」、すなわち功績がはっきりしている神、霊験が顕著な神を指す言葉として用いられたのである。例えば、北野天満宮に祀られる菅原道真は「天満大自在天神」という神号を持つが、広く「天神様」、あるいは「北野の明神」として尊崇されてきた。明神は、その神自身の神威を讃えるための称号であり、仏の化身という発想はない。
両者の違いは、神の存在をどの視点から捉えるかにある。権現は仏の仮の姿という仏教的な解釈が根底にあり、明神は優れた神威を持つ神という神道的な解釈が根底にある。江戸時代には、豊臣秀吉が「豊国大明神」、徳川家康が「東照大権現」と、両者の死後の神号が異なっていたように、両者は明確に使い分けられていた。明治時代の神仏分離令以降、権現の名称は廃止され、神社は明神などの神号に統一されることとなったのである。
神話や伝承に基づき、個人的な解釈を含みます。