出典:国土地理院
御祭神の加波山権現についてお話しするのじゃ。
神仏習合の時代の垂迹神で、加波山三枝祇神社などにてお祀りされておるのじゃ。
詳細は地図にも示しておるし、ページをスクロールして見てみるのじゃ!
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加波山大権現加波山権現etc...
常陸國の加波山を霊山として仰ぐ山岳信仰と、仏教や修験道が融合して成立した神仏習合の神である。加波山は古くから近隣の筑波山や足尾山と共に「常陸三山」と称され、とりわけ修験者の修行場として知られてきた。
加波山には「次郎坊」という名の強力な天狗が住まうと信じられ、その霊力によって風雨を司り、火伏せや病気平癒に霊験あらたかな神として、関東一円から多くの崇敬を集めてきた。
加波山権現を巡る信仰の歴史は、明治時代の神仏分離令によって大きな転換期を迎えた。それまで渾然一体となっていた神仏の調和が解かれ、現在は加波山神社や加波山三枝祇神社として、日本神話の神々を祀る形式に整えられている。しかし、今なお山中には修行の跡である石碑や祠が点在し、かつての修験道の面影を色濃く残している。
また、この山は幕末から明治にかけて、加波山事件という政治的事件の舞台にもなったが、信仰の対象としての加波山権現は、そうした時代背景を超えて人々の生活に根ざし続けてきた。特に、年末の「火渉祭」などの伝統行事には、火の力で穢れを払い、無病息災を願う古来の祈りの形が現代にも継承されている。
茨城県の桜川市と石岡市に跨る加波山における山岳信仰を「加波山信仰」と称し、その山頂に坐す「本宮」「中宮」「親宮」の総称を「加波山権現」と言う。神仏分離以前は寺が管理していたが、明治期以降に神社となった。それが現在の加波山神社(旧郷社)と加波山三枝祇神社(旧村社)である。現在、両社の関係は複雑な状態にあり、参拝者や加波山登山者にとっては、かなり分かりにくい状況と言わざるを得ない。
加波山事件は、1884年(明治17年)9月に、茨城県の加波山を拠点として発生した、明治政府の専制政治に反旗を翻した激越な武装蜂起事件である。この事件の中核を担ったのは、自由党の急進派団員たちであり、その背景には松方デフレによる農村の窮乏と、自由民権運動に対する政府の苛烈な弾圧があった。特に当時の栃木県令であった三島通庸の強圧的な政治手法に対する怒りが爆発し、河野広体や鯉沼九八郎らを中心とする青年たちが、自由の公敵である三島の暗殺と、暴力による革命を通じた「立憲自由の国」の樹立を企てたのである。【加波山の二つの神社】
加波山山頂には、本宮・中宮・親宮のそれぞれの拝殿(遥拝所)と本殿があり、本宮と親宮は加波山三枝祇神社の管轄、中宮は加波山神社の管轄となっている。また山中には巨岩・奇岩が点在し、それぞれに神が宿るとされ、その数は700余柱にも及ぶ。
また両神社の主祭神は以下の通り。
加波山三枝祇神社の祭神は熊野三所権現を基とする祭神である。一方、加波山神社の祭神は天空神の要素が強く、また、「天狗信仰」という民間信仰の色が濃く見られる。
【加波山事件】
彼らは爆弾を製造し、加波山の山頂付近に立てこもって「自由の魁」と記した旗を掲げ、政府転覆の狼煙を上げた。下館の警察署を襲撃するなど実力行使に及んだが、多勢に無勢であり、軍や警察の包囲網を前にして計画は瓦解した。参加者の多くは各地に逃亡したものの、富松正安をはじめとする主要メンバーは次々と捕縛され、重罪に処されることとなった。この事件は、同時期に起きた秩父事件などと共に、言論による民権運動が行き詰まり、急進的な直接行動へと変質していった時代の転換点を示す象徴的な出来事である。
結果として、この蜂起は軍事的には失敗に終わったが、政府に強い衝撃を与え、自由民権運動の熾烈さを世に知らしめることとなった。加波山の険しい山容は、かつては修験道の聖地であったが、この事件によって近代日本の民主主義を希求した若者たちの悲劇的な情熱の舞台として、歴史にその名を深く刻むことになったのである。現在も山中には、彼らが志を共にした場所や、事件を記念する碑が残されており、国家の在り方を問うた当時の若き志士たちの記憶を今に伝えている。