総記そうき

【原文・本文】

常陸國司解　申古老相傳舊聞事。問國郡舊事古老答曰、古者、自相模國足柄岳坂以東諸縣惣稱我姫國。是當時不言常陸、唯稱新治筑波茨城那賀久慈多珂國、各遣造別令検校。其後、至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世遣高向臣中臣幡織田連等、總領自坂已東之國。干時、我姫之道分八國、常陸國居其一矣。所以然號者、往来道路不隔江海之津濟郡郷境界、相續山河之峯谷、取近通之義以為名稱焉。或曰、倭武天皇巡狩東夷之國幸過新治之縣、所遣國造毗那良珠命、新令掘井流泉浄澄、尤好愛。時停乗輿、翫水、洗手。御衣之袖垂泉而沾。便、依漬袖之義、以為此國之名。風俗諺云、筑波岳黒雲挂衣袖漬、是矣。
夫、常陸國者、堺是廣大、地亦緬邈、土壌沃墳、原野肥衍。墾發之處、山海之利、人自得、家家足饒。設有身勞耕耘、力竭紡蠶者、立即可取富豊、自然應免貧窮。況復、求鹽魚味左山右海。植桑種麻、後野前原。所謂水陸之府蔵物産之膏腴。古人云、常世之國蓋疑此地、或名日高見國。
但以所有水田、上小、中多、年遇霖雨、即不聞苗子不登之難、歳逢亢陽、唯見穀寶豊稔之歓歟。

【書き下し】

常陸國司ひたちのくにのつかさ解げし。申まうす、古老ふるおきなに相伝あひつたはる旧聞ふることの事こと。國郡くにこほりの旧事ふることを問とふと答こたゑて曰いはく、古者ふるきもの、相模國さがみのくにの足柄岳あしがらのやまの坂さか以より東ひがしの諸縣もろもろのこほり、惣すべて我姫國あづまのくにと自おのずと稱たたふ。是これの当時とき、常陸ひたちと言いはず、唯ただ、新治國にひばりのくに・筑波國つくばのくに・茨城國うばらきのくに・那賀國ながのくに・久慈國くじのくに・多珂國たかのくにと稱たたえ、各おのおの、造みやつこ・別わけを遣つかはし検校をさを令めす。其後そののち、難波なにはの長柄ながらの豊前とよさきの大宮おほみやに臨軒あめのしたをさめたまひしす天皇すめらみことの世よに高向臣たかむこのおみ、中臣幡織田連なかとみのはとりだのむらじ等たちを遣つかはし、自おのづから坂さか已やむ東之國ひがしのくにを總領すべをさす。干時そのとき、我姫之道あづまのみち分わけて八國やつくにと為なして、常陸國ひたちのくに其その一ひとつに居あり。然しかり、號者なづくものの所以ゆゑは、往来ゆききの道路みち、江あふみ、海之津うみのつ、済わたりを隔へだてず、郡こほり・郷さとの境界さかひ、山やま・河之峯かはのみね・谷たにに相続あひつづきて、近ちかく通かよふ義こころを取とりて名なと稱たたえ給たまふ。或あるいは曰いはく、倭武天皇やまとたけるすめらみこと、東夷之國ひがしのえみしのくにを巡めぐり狩かりて新治之縣にひばりのこほりに幸過いでまして、國造くにのみやつこ毗那良珠命ひならすのみことを所遣つかはし、新あらたに井い掘ほり令しめし、泉いづみ流ながれは浄きよく澄すみ尤好愛いとうるはし。時ときに乗輿みこしを停とめ、水みずを翫もてあそび、手てを洗あらふ。御衣みけしの袖そで、而しかして泉いづみに垂たりて沾ひぢぬ。便すなはち、袖そで漬ひたす義こころに依よりて、此國このくにの名なとす。風俗くにひとの諺ことわざに云いはく、「筑波岳つくばのやまに黒雲くろくも挂かかり衣袖ころもで漬ひたち」は是これなり。
夫それ、常陸國ひたちのくに、堺さかひ是これ廣ひろく大おおく、地つちは亦また緬邈はるかにして、土壌つち沃こえ、原野はらのは肥こえて衍ひろく、墾發ひらくの処ところは、山海やまうみの利さち、人ひと自得やすらかにして、家家いへいへは足饒ゆたかなり。設もし、耕たがやし耘くさぎりに労いそしみ、蚕いとを紡つむぐことに力ちから竭つくす者もの有あらば、立即たちどころに、富豊とみを取とる可べく、自然おのづから貧窮まづしきを免まかるべし。況いはんや復また、塩しほ魚さかなの味あじを求もとめれば、左ひだりは山やまなり右みぎは海うみなり。桑くわを植うゑ、麻あさを種まかむには、後しりへは野のにして、前まへは原はらなり。所謂いはゆる、水みずと陸くがの府蔵くらには、物産くにつもの之これ膏腴ゆたかなり。古人いにしえのひと云いはく、常世之國とこよのくにを蓋けだし疑うたがうは此地このちなり、或あるいは名なを日高見國ひたかみのくにと云いふなり。
但ただし、水田こなた有ある所ところを以もって、上かみは小すくなく、中なかは多おおきなり。霖雨ながあめに遇あふ年としは、即すなはち、苗子なへの登みのらずの難うれへを聞きき、亢陽ひでりに逢あふ歳としは、唯ただ、穀寶たなつもの豊ゆたかに稔みのるの歓よろこびを見みむ。

【現代語訳】

これは常陸の国司による公式な報告書である。これから申し上げることは、古老に相伝されている昔話のことである。國や郡に伝わる昔話を尋ねると、古老は答えて言った。
「昔の人たちは、相模の国の足柄の山より東の地域のことを総じて『我姫あづまの国』といった。この当時、まだ『常陸』とは呼ばれていなく、ただ、新治国・筑波国・茨城国・那賀国・久慈国・多珂国と呼ばれ、そしてそれぞれに国造くにのみやつこと別わけを派遣して統治させた。その後、難波長柄豊前大宮臨軒天皇（＝孝徳天皇）の御代に、高向臣や中臣幡織田連たちを派遣して、足柄岳よりも東側の国を一括して治めさせた。そのときに、我姫の地は八つに分けられ、そのうちの一つが『常陸国』となった。」
そのように名付けた理由は、往来する道が川や海や渡船場で隔てられることなく、郡や郷の境界が山や川の峯や谷に続く陸続きだったので、常に近道という意味を込めて、「常道」と書いて「ひたち」と名付けたと思われる。或いはこういう話もあって、ヤマトタケルが東の蝦夷の国を巡っていた時に、新治にも立ち寄って国造の毗那良珠命を派遣し、新しく井戸を掘らせたところ、湧き出た水がとても綺麗で澄んでいて、とても良い感じであった。そこで乗っていた神輿を停めて、水を掬い上げ手を洗った。そのときに、袖が泉に垂れて濡れてしまった。すなわち、袖を浸すという意味からこの国の名前としたのである。土地の人々の諺に「筑波の山に黒い雲がかかると袖が濡れる」というものがあるのは、この事である。
そもそも常陸国は、面積が広大で、地面は遠くまで広がり、田畑もよく肥え、原野ですら肥えている。新しく切り開いたところにも山や海の幸があり、人々は穏やかで、家々も豊かである。もし、田畑を耕し草を刈ることに勤しみ、糸を紡ぐことに尽くす者がいれば、立ち所に裕福になり、自然と貧しさから逃れることができるのである。さらにはまた、塩や魚の味を求めようとすれば、左は山で右は海である。桑を植えて麻の種を蒔けば、後ろは野で前は原である。言うなれば、水辺にも陸地にも物には困らなぬ楽園である。古人はさらに言う。「常世の国」とはこの地のことである。もしかすると、日高見の国とはこの地のことかもしれない。
ただし、水田がある場所は、上級は少なく、中級が多いので、長雨に当たった年は、稲がよく育たないという不作の嘆きを聞く。また、日照りの年に当たれば、穀物は豊かに実り、歓喜に沸くことだろう。