新治郡にひばりのこおり

【原文・本文】

東那賀郡堺大山、南白壁郡、西毛野河、北下野常陸二國堺、即波大岡。
古者曰、昔、美麻貴天皇馭宇之世、為平討東夷之荒賊(俗云、阿良夫流尓欺母乃)、遣新治國造祖名曰比奈良珠命、此人罷到、即穿新井。(今存新治里随時致祭)其水淨流、仍以治井、因著郡號。自爾至今、其名不改。(風俗諺云、白遠新治之國)
自郡以東五十里、在笠間村。越通道路、稱葦穂山、古老曰、古有山賊、名稱油置賣命。今杜中在石屋。
俗歌曰、
許智多祁波、乎婆頭以勢夜麻能、伊波歸示母、為弖許母郎年、奈古非叙和支母

【書き下し】

ひがし那賀郡なかのこほりさかひ大山おほやまあり、みなみ白壁郡しらかべのこほり、西は毛野河けのかわきた下野しもつけ常陸ひたちふたつくにさかひにして、すなは波大岡はだのをかなり。
古者ふるおきないはく、むかし美麻貴天皇みまきのすめらみこと馭宇あめのしたおさめるに、東夷ひがしのえみしあらぶるあたくにひと阿良夫流尓欺母乃あらぶるにしものふ)を平討たひらげむために、新治にひばり國造くにのみやつこおや比奈良珠命ひならすのみことふをつかはし、これひとまかいたりてすなわあたらしき穿る。(いま新治里にひばりのさとりて、随時ときどきまつりいたす)そのみずきよながれ、りてはりしをもって、よりこほりよびなく。それよりいまいたるまで、そのあらためず。(風俗くにひとことわざに「白遠しらとほ新治之國にいばりのくに」とふ)
こほりよりひがし五十里ごじゅうさとに、笠間村かさまのむらり。こえかよ道路みちを、葦穂山あしほやまふ。古老ふるおきないはく、いにしへ山賊やまのにしものり、油置売命あぶらおきめのみことふ。いまもりなか石屋いはやり。
くにひとうたいはく、
許智多祁波こちたけば乎婆頭以勢夜麻能をはついせやまの伊波歸示母いはきにも為弖許母郎年いてこもらむ奈古非叙和支母なこいぞわぎも

【現代語訳】

東には那賀郡との境に大きな山があり、南は白壁郡(=真壁郡)、西は毛野川(=鬼怒川)、北は下野国と常陸国の二国の境となる波大岡はだのおかである。
古老が言うところによれば、昔、崇神天皇の御代に、東国の荒ぶる蝦夷の賊(土地の人は「荒々しい悪徒」と呼んでいる)を平定するために、新治国の国造の祖である、名前を比奈良珠命という者を派遣し、この方は、到着するとすぐに新しい井戸を掘った。(今も新治の里にあって、時々祭りをしている)その水は清く流れ、新しい井戸を治るという意味から、郡の名前とした。そして今に至るまで、その名を改めることはなかった。(土地の人の諺に「白遠新治国」というものもある)
新治郡より東に五十里ほど離れ田ところに、笠間村という村がある。そこに至る時に通るところを、葦穂山と呼んでいる。古老が言うところによれば、昔から山賊がいて、名前を油置売命あぶらおきめのみことと言う。今でも森の中に棲んでいた岩屋がある。
土地の人の歌にはこのようなものがある。
「言痛けば 小泊瀬山の 石城にも 率て籠らむ な恋ひそ我妹」